「親鸞聖人と法然上人」 2017.7



親鸞聖人は法然上人の弟子である。
親鸞聖人と法然上人の年齢は40歳も離れている。
ある日若い親鸞聖人が、10人ほどの法然上人の弟子がいるところで「法然上人の念仏もこの私(親鸞)の念仏も同じだ」と言った。
多くの弟子が親鸞にとっては兄弟子であり、その多くが親鸞の発言をけしからんと非難して、法然上人に意見をもとめた。
法然上人は、10人ほどの弟子に親鸞の考えをどう思うかと一人一人に聞いたところ大半が反対の意見であった。
ところが法然上人は「親鸞のいう通り、私(法然)の念仏も親鸞の念仏も同じだ」と答えたという。
 
親鸞聖人は法然上人のことを絶対的に信頼したのもこのような経験もあってのことだと思う。
親鸞上人は、たとえ法然上人のいうように南無阿弥陀仏と念仏して、極楽浄土に行けなくても構わないという。
法然上人がおっしゃるのだから、まかり間違って、念仏して、地獄に落ちようが構わないという。
それだけ法然上人のことが好きで信頼しきっていた。
親鸞聖人は法然上人を信じるがゆえに、阿弥陀如来を信じたのであると思う。
歎異抄を読むと、親鸞聖人は南無阿弥陀仏と念仏しても喜びがわかない、極楽浄土に早く生まれたいという気にもならないというようなことが書かれている。
親鸞が心から喜びを感じて南無阿弥陀仏の念仏を唱えることができるようになったのは晩年のことであるようである。
それでも多くの衆生を念仏の世界へ導いた。

私の大好きな良寛さんの和歌に「良寛に辞世あるかと人とはば南無阿弥陀仏というとこたへよ」というのがある。
そして曹洞宗の僧であった良寛の墓が、良寛が終焉をを迎えた木村家の近所の浄土真宗のお寺にあることは驚きである。

 
すべての人を救うという念仏が、法然上人を救い、親鸞聖人を救わないということはない。
どんな人間でも救うのが、阿弥陀如来の願いであり、「南無阿弥陀仏」の念仏なのである。
 
阿弥陀如来の教えは1万回念仏をとなえることと1回念仏をとなえることも同じということであると思う。
仏教を勉強して阿弥陀如来の教えを勉強して念仏をとなえることと、仏教も阿弥陀如来のことも知らなくて念仏をとなえることも同じということであると思う。
 
阿弥陀如来だけでなく、すべての仏の願いは生きとし生けるものをすべて救うことである。
仏教は、善人悪人などの区別はしていない。
仏教を知る知らないなどの区別はしていない。
 
このようなことを言えば、必ず平気で悪事を働く人間が出る。
現代はかなりの知能犯が多くて、ずるがしこく人知れず悪事を働く。
確かにこの世は、真っ暗闇にも見える。
そんな中で、美しいヒカリを放つものがある。
生き難き世の中を愛をもって生きることほどすばらしいことはないのかもしれない。
 
 
 
師のない仏法はないそうである。
仏教は人から人に伝わるものであるらしい。
親鸞聖人の師はまさしく法然上人である。
このような師に巡りあえることは、人生最大の幸せに等しい。
 
男が女を好きになり、女が男を好きになる。
本当に愛が深ければ、そこにその人がいるだけで人生は輝いて見える。
男と女が結婚して子供が生まれる。
初めての子供は光り輝いて見えるものだ。
 
しかし、それらの愛は多くは10年もしないうちに輝きを失う。
 
師と弟子の愛も多くはそうであろう。
 
けれども、輝きを失わない愛がないわけではない。
 
 
 
 
 

 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。

    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
      一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。







 水書房 「わたしの愛する仏たち」より  薬師寺月光菩薩

















「耐え忍ぶことの大切さ」   2017.6

「若い時の苦労は買ってでもしろ」と格言のようなものがあります。
「艱難、汝を玉とす」とも言います。
 
私も、苦しい思いをしている人がいたら、決して、それは無駄にはならないと言いたい。
どんな苦しみも、そう長くは続かないものですよ。
いつか必ず、抜け出しています。
 
61年間の人生をふりかえると、私の人生は苦労の多い人生であったと思います。
そのことが、この頃、よかったのだとも思えるのです。
私が幼少の頃から父親は、酒を飲むと狂ったように暴れ、絶えず問題を引きおこしていました。
家庭内は非常に暗かったですね。
本当に嫌な思いをたくさんいたしました。
しかし、その原因の一つが私の出生の秘密にあることを知ったのは、ずいぶん後のことです。
「母をたずねて三千里」という物語を読み、食事中に、三千里とはどのくらい距離があるのかと聞いたことを思い出します。
近所のおばあさんに、「おかあさん、そっくりだね。いつもニコニコしているね」と言われ、そのことを母に話したら、急に母のキゲンが悪くなったことを思い出します。
小学3年生の頃は、何も悪いことをしていないのに、なぜ、自分は不幸なのだろうかと思い、神や仏はいないに違いないと思いました。
アンデルセンは少年のころ、靴磨きをして生活していたということを知り、うらやましくて都会に家出して靴磨きをしたいと思ったものです。
お腹に包丁をつきたてて切腹すれば、死ねると思いましたが、少し突き当てるだけで痛くて断念したこともあります。
だから作家の芥川龍之介や太宰治などが自殺したということを知ると、勇気のある立派な人に思えて、自殺したというだけで尊敬したものです。
小学校5年生の時に、友達の里美ちゃんが脳腫瘍で亡くなったときには、仏壇の中の阿弥陀如来を取り出して、頭を叩いてやりました。
罰があたるなら罰があたればいいとのおもいでした。
友達が先に死んだのだから、死というものが、それほど恐ろしくなくなったのも事実です。
ちょうどその頃から、家庭が比較的おだやかになり、それとともに私の学業成績もみるみる上向きにもなりました。
中学生の頃は、学年でトップを争うほどでしたから、なんだか順風満帆、怖いもの知らず、明るくほがらかな日々を送りました。
しかし、高校に入学後、失恋や祖父が殺害されるなどの事件が次から次へと起きて、薄闇に包まれた青春が始まりました。
それから妙な縁で警察官となり、貴重な体験もしました。
私は農家の生まれですから、農民の土地を守る成田闘争だけは、出動したくないと思っていたのですが、皮肉にも管区機動隊に2年間在籍し成田闘争に出動、おまけに次は第一機動隊に転勤となり、またいつまでとはなく成田闘争等に出動することになりました。それで第一機動隊に転勤とともに退職することを決断しました。
その時の、同期も今年の3月で全員退職となり、2月には何十年ぶりの同期会に出席しました。
寝食を共にし、困難をともに経験した仲間はやはりいいものです。
その後出版社のグループ企業内で30年ほど勤めましたが、2年に1回は上司と衝突したりして、部署の移動、退職、再就職、独立と波乱に満ちていました。
私のような人間は、上司にすれば煙たくて扱いにくいのだと思います。
妻にしても、妻にありがとうの一言も言わない、しかってばかりの私は嫌な夫にしか過ぎなかったと思います。
新しい彼を見つけて、妻は家を出ていきました。
これは、やはりかなりのショックでした。
その頃、会社は倒産するし、借金はあるはで、駅のホームを歩いていると線路にすいこまれそうで怖かったのを覚えています。
 
それで、私には、誇れるようなものはありませんが・・・。
今は、色々の苦難も良かったなと思うのです。
我慢して、こつこつ生きていれば、それなりに道は開けるものだと思います。
いつまでも、くじけてうじうじしていても始まりません。
嫌なことは、忘れて、新しい人生を一歩一歩、歩みたいものです。
最近の自分を見ていると、少々のことでは、くじけそうにないとも思うのです。
まあ、それは、わかりません。想像以上の苦難が待ち受けているかもしれません。
ただ、じっと耐える自信はあります。
それで、何とかなると思います。
 
私と同じように苦しんでいる人を見ると、少しでも応援したくなります。
けなげに生きている人を見ると、応援したくなります。
実は、おあいこで、そのような人は私を応援してくれるのでもあるのですが・・・。
お互い頑張りましょうね。
 
じっと、笑顔で忍耐です。



 
 
 
スマイル仏壇店内の観音様








 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。










「仏壇あるところ道場となる」   2017.5

仏壇とはなんなのだろうと考えたとき、明確な答えはないようである。
仏壇の起源も、仏壇の必要性も明確に説明したものはない。
 
私の田舎では、どこの家にも仏壇があった。
今でもそうだと思うが、都会では、仏壇のない家も多くなった。
だんだんと、日本は昔の日本ではなくなってきている。
それが良いことなのか、悪いことなのかはわからない。
しかし、文明が進み、便利になり裕福な時代となったが、日本人の幸福感は向上したのであろうか。
 
明治に日本にやってきた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、日本人の庶民があまりにも善良で無欲で純真であることに感動した経験を作品として残している。
陶芸家のバーナード・リーチは小泉八雲の作品を読んで、日本に強い憧れを持ち、留学先で友人となった彫刻家で詩人の高村光太郎に日本行きを相談している。
高村光太郎は、小泉八雲が見た日本はすでにないから、日本行きはよした方がよいと言っている。
明治の30年、40年の間にも急激に日本は日本らしさを失ったということのようである。
 
仏教は、人としての生き方に大きな影響を与えてきた。
人生のどうしようもない悩み苦しみにも、生きる望みや安心を与えてきた。
仏教は物質面の幸せではなく、精神面の幸せに大きく役立ってきた。
それがいつの間にか、庶民には葬式のときなだけ必要なものか、観光地としての見学先になってしまった。
当然例外はあるだろう。
これは、仏教関係者だけの問題ではない、日本人の、いや人間(人類)の問題である。
 
ところで、仏壇とはなんなのだろう。
道元禅師は、京都の在家信者の家でお亡くなりになった。その数週間前に、信者の家のお堂の廻りを法華経の神力品を読誦しながら歩かれたそうである。
この神力品には、諸仏はあらゆる場所にいらっしゃる。野でも山でも、家でも庭でも、どこにでもいらっしゃる。そこに塔を建てよ。そして供養しなさい。
その場所は仏教の道場となる。というような意味が書かれているらしい。
なるほど、仏壇を置き、線香を焚き、水をささげ、ご飯やお菓子をささげて両手をあわせて拝む場所は、神妙な道場である。
目に見えない仏や父や母や息子や娘を思うとき、いつもの日常と違ったものがある。
仏壇のある部屋は、仏教の道場である、心の道場である、人間いかに生きるかを問う道場である。
 
仏様は、あらゆる場所にいらっしゃる。
仏壇があれば、そこはたちまち仏教修行の道場となる。
なかなかいいではないかと思う。



私の愛する仏たち(水書房)
法界寺阿弥陀如来




 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。








「紫の法衣と黒の法衣」   2017.4



 鎌倉時代の道元禅師の跡を継いだ懐奘(えじょう)という僧がいらした。懐奘は比叡山でも将来を期待される僧でもあった。
 この懐奘の母は「紫の衣を着るような僧ではなく、墨染の黒い衣を着て、裸足で街中を歩くような僧になってほしい」と言ったという。
 室町時代の一休禅師は、高貴な方から法要を依頼されて、紫の法衣が送られてきた。すると一休禅師は、法要には行かず、その紫の法衣だけを法要の場に届けたという。
 そして、現在の平成時代、ある禅宗の管長は、多くの管長が集まる定例の法要に、紫の法衣ではなく黒の法衣で出席したかったが、様々な理由で、それができなかったと書きしるしている。
 様々な理由もそれなりに想像はできる。
 たかが衣の色の話である。
 しかし、人間というものの姿の一面がよくよく現れているような気がする。
 
 私も、いつのまにか事なかれ主義になっているのだろうか。
 このメールを読む人には、寺院関係者が多い。
 生意気なことを書く奴だと、こらしめてやれと思う方もいらっしゃることだろう。
 この文章を書きながら、強烈な中傷を受けるのではないかと、一瞬の不安が脳裏をよぎってしまった。
 そのようにして、人はいつのまにか体制の中で、飼いならされて、大切なものを見失ってしまうのかもしれない。
 
 「我が身を捨ててこそ」と、思っているが、いつの間にか、自分の苦難や仲間の苦難を厭うのである。
 良寛さんは、政治の話しをすることを嫌っているし、教団というものもお好きではなかったようである。
 長岡藩主から寺を寄進するという話しもきっぱりお断りしている。
 一生、乞食坊主として、一間の部屋で過ごした方である。
 貧村を托鉢して歩きながら何も得ることがなくむなしくしている時、ある高僧に出会い、自分の中に宝があることを教わったという。
 それからは、自由な心で托鉢もできるようになったようである。
 宝は、なんであるのか。また良寛の悟りはどんなものであるのかは記されてはいない。
 それは、口にしたり書いたりすると壊れてしまいそうなほど微妙なものらしい。
 
 私達は、何でも学問すればわかるような気がするし、どうもうまく説明して証明していかないと、納得しない者が多い。
 ある時、紀野先生が、「尾てい骨に響くような話し」ということをおっしゃたことがある。
 頭で理解するのではなく、身体ごと、ドカーンと衝撃を受けるような話しをしたり、書いたり、聞いたりしたいものだ。
 
 
 これを書き終えようとする4月3日午後6時前、東京都の杉並区は、突然の雷(かみなり)の轟(とどろき)と雹(ひょう)である。
 何とも、今後の波乱の人生を予告するようでもある。
 これを、さあ、おもしろくなったと思うか・・・仏様におすがりするか・・・まあ、それなりに生きていくに違いない。
 
 
 
「わたしの愛する仏たち」 水書房  中宮寺如意輪観音
 












「わが身を捨ててこそ」   2017.3



南無阿弥陀仏と言えば、浄土宗の法然聖人、その弟子の浄土真宗の親鸞聖人という気がする。
南無阿弥陀仏の念仏は、法然上人に始まるようにも思っていたが、法然上人よりも200年前に生きた空也上人も忘れてはならない人のようだ。
口から南無阿弥陀仏の六体の仏像を吐き出している空也上人の像は、印象的だ。
年代がよくわからないので、法然上人の後の人かと思ってもいたが、実は、ずいぶんと古い方だったのだ。
空也上人は、特定の宗派に属さず念仏の信心を説いて歩いた僧だというこただ。
素性も教義もはっきりとはわからないようだし、空也上人のことは紀野先生の「わたしの愛する仏たち」という本で読んだくらいである。
空也上人は京都の街では、それなりに名前は知れ渡っていたようではある。
この空也上人に、朝廷に仕える千観内供という僧が、四条河原で出会ったたとき「いかにして後世を助からんことを仕るべき」と聞いた。
最初は、何も答えなかった空也上人であるが、あまり熱心に聞くので、一言、返事したらしい。
「何(いづ)くにも身を捨ててこそ」
これを聞いた千観内供は、感じ入ることがあって、たちまちに朝廷の職を辞して箕面山に身を隠し、やがては南無阿弥陀仏の念仏を広めるようになったとのこと。
 仏教に関わる本を読んでいると、非常に興味深いお話しが多い。
 
剣の達人と仏教の関わりも深いが、宮本武蔵は晩年肥後熊本の細川侯の元に仕えた。
ある時、細川侯が、宮本武蔵から見て藩内にこれはという人物はいるかと尋ねた。
武蔵は、少し思案して「一人、それらしき人物がいます」とこたえた。
その人物は、細川侯から見ても、誰が見ても大した人物には見えない。
そこで細川侯が直接その人物に会って、心当たりがあるかと聞いてみたが、本人も何もないという。
宮本武蔵ほどの男が、認めた男なのだから何かあるはずだと、強く問いただすと、「そう言われれば、一つ心あたりがあります。常日頃から、自分のことは据え物であると考えるようにしています」
とこたえたそうだ。
自分が、据えも物、置物であるのであれば、右に動かされようが左に動かされようが、打ち壊されようが意に介さずという覚悟であろうか。
そこには、わが身に対する執着はない。宮本武蔵と真剣で勝負しても、泰然と剣を構えたに違いない。
当然剣の極意の奥深きところには、「わが身を捨ててこそ」というものがあるに違いないと思う。
これが、自分のものにできたら、仏教も剣道も人生もかなり奥深いものになっていくに違いない。
 
この話しをすると、もう一つ話したくなる愉快な話しがある。
三重の伊勢に明治大正昭和を生きた村田和上という真宗の僧がいらしたのだが、何か社会的なことで問題が発生したのだろうか、極道というかヤクザな連中が寺に押しかけて村田和上をさんざん脅したらしい。
村田和上が、びくりともしないので「俺たちはなぁ、死ぬことなんか怖かねえんだ。覚えていやがれ」と捨て台詞をはきながら帰ろうとした。ただ、あまりにも寒い日だったので、手ぬぐいを取り出してほうかぶりをしたらしい。
その時村田和上は一言「死ぬのが怖くないような人も寒いのかい」と言ったらしい。
ヤクザな連中もぐうの音も出なかったに違いない。
 
わが身を捨てている人間は、やはり、違う。
完全に捨てきれなくても、わが身に対する執着をなくしていくということは大切ではないだろうか。
 

[わたしの愛する仏たち」水書房 空也上人 
 
 
 
 
 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   心ひろびろと、さわやかに生きん。
   真理をもとめてひとすじに生きん。
   おおぜいの人々の幸せのために生きん。














「両手両足がなくても生きていける」    2017.2

達磨大師に始まる禅宗の六祖である慧能(エノウ)は、元は木こりで薪などを売って生活していた男で、文字の読み書きもできませんでした。
(学問にも秀でた立派な兄弟子達が多くいましたから、無学な男が祖師になったということで、妬みや怒りもすさまじく、命も狙われましたが・・・)
イエスキリストも確か元は大工さんではなかったかと思います。
一般的な学問という教養がなくても、悟ることは十分できるということであろうと思います。
 
我が子が4歳で自分の名前が書けるようになったことを大喜びする父母もあれば、4歳なのに自分の名前しか書けないと嘆く父母もあります。
名声高く豪邸に住んでいても、夫が浮気をした、子供が非行に走った等々、あえぎ苦しんでいる人も多くいます。
当店にも自分達家族の不幸を嘆き、先祖供養で何とか救われたいという方々から相談を受けることがあります。
たまたま生活が好転すると、おかげさまでとお礼を言われます。
そして何年かたち不幸が続くと先祖供養の仕方が間違っているのではないかとの相談です。
先祖供養は悪いことではないでしょうが、先祖供養したから必ず幸せが訪れものではなく、
人生いいこともあれば悪いこともあるし、良いことが続くこともあれば悪いことが続くこともあります。
そんなときに、どのような心がけで生きていくかということであろうかと思います。
苦しみと思えるような出来事も、実は喜びに変わる出来事でもあるのです。
 
 
なかなか苦しみ悩みから抜け出せないという人には、優秀で過去に恵まれた生活を経験した人が多いのではないでしょうか。
もともと貧乏で頭もよくなく出世など考えたこともなく、欲もあまりない人ならば、人生それほど苦しんだりはしないように思います。
そして神や仏をどこかで信じている人には大らかさがあります。
(ただし、私は人に信仰することを押し付けるような人は間違っていると思うし、ある意味嫌いです)
 
幼い時に、両手両足を失いながらも口で裁縫をすることもできた中村久子という女性がいました。
見世物小屋で長く働き子供も立派に育てた女性です。
来日した盲目で聾唖であったヘレンケラーが中村久子に会って「私より不幸な人、私より偉大な人」と称賛しています。
この中村久子の講演会での言葉に、なるほどという言葉があります。
 
「人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。」
 
中村久子は42才の時に歎異抄に出会ったらしい。
やはり彼女の人生を輝くものに変えてくれたのは、仏教の教えであるようである。
 
中村久子さんとおつきあいがあったのは、Hさんだっただろうか。
紀野先生の著書の中で、彼女が手足を失くし家庭的にもめぐまれない中、強く生き続けたことだけはかすかに覚えていた。
中村久子という名前も、すっかり忘れて、紀野先生のどの本のどのあたりに書かれていたお話しだったであろうかと思いながら、みなさんに紹介するには、あまりにもいいかげんすぎると思っていたが、ふと浮かんだ「中村久子」という名前でインターネットで検索すると、しっかりと、中村久子という女性がウキペデイアに掲載されていた。
 
中村久子さんもヘレンケラーも、美しい女性でもある。
 
 
 
 









「イワンのばか」    2017.1

 小学校2、3年生の頃は、アンデルセン、グリム、イソップなどおもしろおかしくて夢中で読んだものだ。
 日本の童話では、ごんぎつねや泣いた赤鬼には、涙を流したりもした。
 「イワンのばか」もこの頃読んで、そこぬけにお人よしで愚かで馬鹿であることはすばらしいことでもあると学んだような気がする。
 このイワンのばかは、なんと岩波文庫にも収録されている。
 最近気づいたのだが、作者は文豪トルストイである。おまけに岩波文庫の本のカバーに書かれた解説によるとロマン・ロランが「芸術以上の芸術」「永遠なるもの」と絶賛している。
 ただの童話だと思っていたが、確かにトルストイの人生観というか「人間いかに生きるべきなのか」が表現されているのだと思う。
 
 中学1年生になったときに、小学校時代の同級生19人はいきなり私のことを、男子は「ノダ」女子は「ヨシハル君」と呼び始めた。
 中学校に入学するまではみんな「ヨッチャン」と私のことを読んでいた。
 みんなといっても3人は、引き続き「ヨッチャン」と呼んでくれた。
 その1人の男の子と1人の女の子は、普段から非常に不器用で決して利口とはいえないタイプだった。
 もう1人は非常に賢くもあり、友情というものについても語りあった女の子ではある。
 私は、あいかわらず小学校時代の時のままの呼び名で、みんなの名前を呼んだ。
 今でも、たまに会うことがあれば、そのまんまである。
 その頃も、友達に急に態度や呼び名を変えるのはおかしいと言った覚えがある。
 皆、それぞれに言い分があったようだ。
 普通の人間というのは、何でもないようだが、意外とあてにならないし信用できないものだと思う。
 それが絶対に悪いというのではない。
 世の中は、時代や環境が変われば、いとも簡単に変わるものだということである。
 
 さあ、「人間いかに生きるのか」とか「真理とは」。
 なかなか結論が出ない。
 このようなことを思って生きると孤独なこともある。
 
 
北原白秋の「巡礼」という詩がある。
 
 巡礼
 
真実、諦め、ただひとり、
真実一路の旅をゆく。
真実一路の旅なれど、真実、錫ふり、思ひ出す。
 
 
 
人間はというより、日本人はスズやリンの音色に何かを感じてきたようだ。
 
 
私はあまり俳句や短歌は読まないが飯田蛇笏の有名な俳句に
 
 くろがねの秋の風鈴鳴りにけり
 
というのがある。
飯田蛇笏が戦争や病気で息子達を失ったことを知ってからは、秋を表現した句というよりも、悲しみや鎮魂の句のようにも思える。
 
昔読んだ、童話や詩や俳句が、歳をとるとともに、また、違った意味でよみがえる。
60歳の私は、幼少の頃とそんなに変わっていないように思うのだが・・・・。
もっとも、幼い頃は広島弁でワシと言い、それが僕になり、この頃は、私と書くことも多くなった。
会話では、あいかわらず僕でもある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   心ひろびろと、さわやかに生きん。
   真理をもとめてひとすじに生きん。
   おおぜいの人々の幸せのために生きん。







「仏様はいらっしゃいますか。」  2016.12

仏様はいらっしゃいます。
私は師と仰ぐ紀野一義先生のおそばにいて、仏様はいらっしゃるのだなと思うようになったようです。
実のところ、自分がどのように信じているのかは定かではありません。
紀野先生のお話しや著書にも出てくる、大正、昭和に活躍された浄土宗の僧である弁栄聖者の臨終の言葉は「如来はまします・・・衆生はそのことを知らない・・・弁栄はそのことを知らせるためにやってきた・・・」だとお聞きしています。
文化勲章も受賞した世界的な数学者であった岡潔先生は、弁栄聖者を尊敬され、定期入れには弁栄聖者の信仰する阿弥陀如来の写真が入っていたそうです。
その写真を時々出しては、眺めていらしたとのこと。そして、「私が悪いことをするのも、良いことをするのも阿弥陀如来がしていらっしゃるのだ」と、そのようなことをおっしゃていたらしい。
紀野先生は、工兵の下士官として出征し、13隻の船団が12隻撃沈され、魚雷がすぐそばをかすめていくのも目撃されました。
撃沈された船の乗組員を救助しようにも救助できない。海に漂う兵士達は、救助しようとすると、先に行けと手を振る。停船したら、敵戦艦にたちまちに撃沈されることを知っているからです。
1隻残ったサマラン丸という船は台湾に上陸したものの、激しい空爆に襲われます。
不発弾の数も相当なもので、軍の不発弾処理班は誤爆で壊滅しました。
台湾の農民は不発弾を恐れて仕事ができません。爆弾に触るべからずとの軍命令が出ていましたが、農民のために軍命令を無視して紀野先生は、一人で不発弾の処理をしていきました。
その数1752発。どう考えても、誤爆しなかったのが不思議です。
実際に3度、信管をはずした瞬間、撃針が先生の指につきささったことがあったようです。
アメリカ軍の爆弾ですから、その構造がわからないものがあります。
そんなときには、爆弾の側で坐禅して思案したこともあったようです。
もともと紀野先生は、顕本法華宗の寺院の出身、中宮寺の如意輪観音様にそっくりのお母様は浄土真宗のご出身、仏様やお母様に守られていたことは間違いないようです。
この頃から先生は、仏様の存在を確かに感じられたのではないでしょうか。
東京大学印度哲学科の特別研究生にも選ばれ、将来は仏教学者としての道は開けていたのに、仏教伝道の道を選ばれました。
おおぜいの人々の幸せのために仏教をわかりやすく伝えていきたいというのが先生のお気持ちだと思います。
私が30歳、先生は65歳。
講談社の新書版で「般若心経を読む」という紀野先生の著書を初めて見たとき、読んだというよりも、本のカバーの先生のお顔の写真を拝見したときの印象が強烈でした。
ハンサムではありましたが、頑固一徹、嘘は決してつかないだろうというお顔を拝見して、非常に印象深く思ったものです。
当時、私はS出版の地方の営業マンでしたが、S出版の仏教コミックの監修が紀野先生でした。
だんだんと、紀野先生に近づき、先生の晩年は月の十日前後は、足が不自由になられた先生のお供をするようになりました。
先生のお側にいたおかげで、仏様はいらっしゃるということが自然に信じることができるようになったようです。
 
どれだけえらそうなことをいっても、迷ってばかり、不安と苦しみもつきまといます。
しかし、人生、つらいことも、迷いも、不安もあっていいのだということもわかってきたように思います。
 
先生がお亡くなりなる2年ほど前のことだと思いますが、先生の著書を持参して先生のサインをいただたくことがありました。
「・・・・・。迷っても、悟っても、仏の命の中。死んだら、また、会おうな」と書かれてありました。
迷ってばかりの人生だけど、それはそれで、いいのではないかと思います。
 
どうやら、死んだら、それでおしまいなのは、この世がおしまいなだけで、あの世もありそうですが、あの世で先生に会って、恥ずかしくない生き方をしたいものです。
 

 今は亡き、わが師の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   心ひろびろと、さわやかに生きん。
   真理をもとめてひとすじに生きん。
   おおぜいの人々の幸せのために生きん。







「気にしない生き方」   2016.11

 ゲーテの格言を紹介した本を読んでいると、「商売のコツ」についての言葉がありました。
「商売のコツは市場に行けば、一目瞭然だ。売れている店は、他の店のことなど見向きもしない。自分の店の商品のよさを大声で売り込んでいる」
 良寛さんも、ある人から金持ちになる方法を教えてほしいとお願いされると、「他人のことは気にせず、自分の仕事をまじめにやれば、金持ちになれる」と答えたそうです。

 人間だから、人からよく思われたいと思うのは当たり前ですが、人目が気になりすぎ不安になると、動きがにぶってしまいます。
 せっかくいいところがたくさんあるのに、人目を気にし過ぎて、自分らしさを失ってしまうのはもったいないことです。

 短所ばかりだと思っている人もいるかと思いますが、短所と長所は裏腹の関係です。
 神経質だという欠点は、繊細だという長所です。
 コップ半分の水も、まだまだ半分あると思うことも、もう半分しかないと思うこともできます。
 病んで失うだけの人もいれば、病んで得る人もいます。
 1万円のお金で満ち足りる人もいれば、1億のお金でも不足を感じる人がいます。

 人が窮地に追いやられたときに、どのように生きるか。
 神や仏から、人間としての試験を受けているようなものかもしれません。
 
 人間、気持ちの持ち方一つで、幸せな気持ちにも不幸せな気持ちにもなります。
 ちょいと視点や、ものの見方を変えてみることも大切です。

 なげき悲しむもよし、ニコニコするのもよし、ひょうひょうと受け流すもよし、右往左往するもよし、人目など気にして、自分らしさを失わないことです。
 萎縮して実力を発揮できないのは、もったいない話しです。


 わが師(紀野一義)の生き方の基本は、肯定肯定絶対肯定(ええなあええなあええなあ)という生き方です。
 このような生き方も世間からは傲慢だとか色々と非難されることもあります。
 その非難に、腹立つこともありますが、それは、まだまだ私という人間ができていない証です。
 そういった非難も、軽く受け流して、わが道をこつこつと歩きたいものです。
 
 今は亡き、わが師の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   心ひろびろと、さわやかに生きん。
   真理をもとめてひとすじに生きん。
   おおぜいの人々の幸せのために生きん。








「生きていることが救いだ」      2016.10

 前回「苦しみの対処方法 その1」と書きました。
 その1では、人間には様々な欲があるけれども、その欲に執着しないということであったろうかと思います。
 確かに、執着さえしなければ、苦しみはなくなります。
 では、その2は何かというと、仏教的には八正道といことでしょうか・・・・。
 正しいものの見方、正しい行い・・・・正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定。
 
 そんなことは、言葉でいくら並べても、心の平安にはつながりません。
 しばらくの平安はあっても、たちまち心はゆらぎはじめてしまうでしょう。
 
 やはり、信心や信仰の決定(けつじょう)というか、人生哲学というか、腹を据えるというか、そのようなものがないと、心はゆらぎやすいでしょう。
 かといって、盲信や自分の幸せ優先の信心は、どうも私は好きになれません。
 
 ところで、まだ十代の可憐な少女と、位牌や仏具の注文で、電話で応対することがありました。
 ひょっとすると、その少女は、世間一般からは不良少女とのレッテルを貼られているのかもしれないなとも思います。
 その少女の声は、なぜか世間ずれしていなくて、ひたむきで、声を聴いているだけで、可憐で美しい少女に思えました。
 でもその清純な可憐な少女が、世の中の荒波にもまれつづけたら、どうなるのでしょうか。
 荒んだ人生を歩み、薬物で身をほろぼすのでしょうか、人を騙し嘘と虚栄の世界を生きていくのでしょうか。
 できれば、人生の荒波に耐えてこつこつと生きてほしい。
 
 少年、青年の中にも、心優しき純粋な人もいるでしょう。
 心が優しいというか、心が美しいと、本当に生きづらい世の中です。
 絶望や虚無感にとらわれている人も多いことと思います。
 
 
 きっと悩み悩んで死線をさまよっている人も何人かいらっしゃるのではないかと思います。
 でも死んではいけません。
 「生きていることが救いだ」
 生きている限りは、無限の可能性があります。
 
 私は、幼少の頃から父親が大嫌いでした。
 父親が本当に、どうしようもない人間に思えました。
 かんきわまったのは、私が26歳の時に、父が、酒に酔い服用中の薬のせいもあったのでしょうが、よだれを垂らして、妬みと猜疑心のこもったどろんとした目で私を見つめた時です。
 私は、ショックで発狂して家を飛び出してしまいそうでした。
 あれから30年、父は、あいかわらずのようでしたが、孫の中にはそんな父(祖父)を好きだというものもいて、それなりに幸せに過ごしたようです。
 父が危篤というので、亡くなる2か月前に帰ったのですが、意外と元気で、驚いたのは、父が赤ちゃんのようにきれいな目をしていたことです。
 初恋の少女の目を見た瞬間にどきりとしたように、父の目を見て、あまりに美しく澄んだ目なのでドキリとしました。
  私は、父親の人生に何ら価値など見出せませんでしたが、このときから、父も生きていてよかったなと思えるようになりました。
 人生最後まで、何があるのかわからないものだと思います。
 
 
 自分が、ひどく不幸せに思うかもしれませんが、もっと不幸せな人もたくさんいます。
 自分が最低の人間だと思うかもしれませんが、そう思うのは、まっとうな心をもっているからでしょう。
 私も、人には話せない、苦しい経験、悲しい経験、恥ずかしい経験をたくさんかかえています。
 もしあなたが、聞きたいというならば、いくらでも教えてあげてもよろしいかと思います。
 
 私の人生の、大半は苦しみだったように思いますが、60歳過ぎて、ようやく、いかに生きるかといことが、少しわかってきたように思います。
 苦しみも、じっと耐えていれば、必ず、苦しみではなくなります。
 いつか、その苦しみが、結実して花咲かせるかもしれません。
 できれば、人知れず野に咲く、小さな小さな花を咲かせたいものです。
 人に知られない小さな花は、この世で一番美しい花かもしれない。
 苦しみ悲しみは、永遠には続かないものです。
 
 皆、天国や極楽浄土を望みますが、おそらく天国や極楽浄土は、ひまで退屈で、どうしようもないくらい退屈ではないかと思います。
 極楽浄土の住人から見れば、人間世界は、恐ろしくも、もう一度生まれ変わりたいほどの世界かもしれません。
 苦しみ悲しみは、大切な体験であり、魂を成長させてくれるものなのかもしれません。
 
 苦しみ悲しみは、ずっと続くことはありません。
 生きていれば、必ず、喜びの時もあります。
 一度死んだつもりで、生きなおせば、あえて死ぬこともないのではないかと思います。
 死んだつもりで、何もかも忘れて、何もかも捨てて、もう一度、やり直すという方法もあるのです。
 
 
 
 

    死

 

  夜半

  一人 ものおもえば

  水槽の水音が聞こえ

  アパートの

  小さな燈火が見え

  ここに

  死んでしまいたいのと

  つぶやく娘がいるなら

  僕も

  いっしょに

  死んでしまいたい

  それが

  何の意味のない死であろうと

 

 

これは、私が17歳のときの詩です。
16歳の秋に失恋し、年末には祖父が殺害され、翌年早々には両親が離婚すると言いだし、生活費を稼ぐためにガソリンスタンドでバイトも始めた頃の詩です。
さすがに心は曇ってきました。暗い目をしていたのではないかと思います。

 

 
 
高校を卒業すると、妙な縁で私は警察官になり、初めての現場勤務の1年間で、腐乱死体の司法解剖2件、自殺者の検視5件以上に立ち会うことになりました。
若者の農薬を飲んでの自殺の検視にも立ち合いましたが、嘔吐して失禁や脱糞して、もがき苦しんだ末の死体からは、覚悟の自殺にしても後悔の念も感じます。
遺書には、社会への批判やサタンという言葉が書き込まれていました。
おそらくは優秀な若者であったことは、在学していた大学の名前でもわかります。
自殺をすれば、他殺の疑いもありますから警察の検視が必ずあります。
死体を裸にしてすみずみまで、調べていきます。
温度計を肛門から直腸に差し込み、死後の体温も測ります。
 
私は、自分の身体を他人に検視されることを思うだけでも、自殺はしたくないものだと思いました。
おそらくは、自殺する人は自殺した人の姿を見たことがない方が多いだろうと思います。
どうでもよいようなことが自殺を思いとどまらせるかもしれません。
生きていることが救いです。
 
 
今は亡き、わが師(紀野一義)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。
 
 心ひろびろと、さわやかに生きん。
 真理をもとめてひとすじに生きん。
 おおぜいの人々の幸せのために生きん。










「苦しみの対処方法 その1」    2016.9

 私は、20歳のときに良寛さんの、ある漢詩の一つを読んで、良寛さんが大好きになりました。
 60歳の今日まで、東郷豊治氏が編纂された良寛さんの漢詩の詩集を何度も何度も読んできました。
 すると良寛さんは、悟りを確かに開かれ、自他ともにそのことを認めていたのだということがわかります。
 良寛さんは、その悟りは言葉にして誰かに伝えようとすると壊れてしまいそうだとおっしゃいます。
 当然、良寛さんの悟りが、どんなものだったのかということは、言葉では説明されていません。
 
 良寛さんは新潟県の出雲崎でお生まれになり、岡山県玉島にある円通寺で修行され、国仙和尚から印可されています。
 私の師である紀野一義先生も、良寛さんのことが大好きで、良寛さんに関する数冊の著書があります。
 私は、良寛さんが歩き紀野先生が歩かれた土地も少しだけ歩きました。
 
 子供達とかくれんぼをしたり手毬をつく良寛さんからは、悩みや苦しみは想像ができないと思います。
 子供達と遊んでいる良寛さんを、村人達は笑って通りすぎたり、どうして遊んでいるのですかと責めたりします。
 良寛さんは、軽く会釈して頭をさげて、やりすごしています。
 
 良寛さんにも色々なことがありました。
 あるとき知らない村を托鉢して歩いているときに、盗人と間違われたあげくに生き埋めにされそうになりました。
 たまたま良寛さんのことを知っていた庄屋さんが通りかかったので、運よく誤解がとけて助かりました。
 どうやら良寛さんは、強く弁明もせずにお経を唱えて生き埋めになるのを待っていたようです。
 
 良寛さんは漢詩の中で、「災難にあうときには災難にあうのがよろしい。これが災難を避ける方法だ」といっています。
 死ぬときは、死ぬのがよろしいということでしょうか。
 
 ところが、これほどの良寛さんでも友人の有願が死に、弟子の佐一が死んでしまうと、悲しみのあまり山中をさまよい歩きます。
 そして病気になって寝込んでしまいました。
 
 死ぬ前には大変な下痢で、それが耐え難い苦しみだったようです。
 漢詩の中に、その下痢の大変さが書かれています。
 最近、良寛さんの和歌を読んでいて、ドキリとしたのですが、この下痢の最中に「急に食事をとるのをやめて死んでしまおうかというわけでもないが・・・」などという意味の和歌があるのです。
 
 良寛さんでさえ、このようであったのだと思うと、人間ならば悩み苦しみもあってあたりまえで、愚かな自分も他人も愚かなまま、受け入れることができるような気持ちになります。
 
 お釈迦様も、晩年に弟子の阿難に「自分の身体は、今にも朽ち果てそうで、皮ヒモはちぎれ車輪はくだけそうに軋んでいる牛車のようだ。」とおっしゃいました。
 なぜかお釈迦様も最後は下痢でした。
 お釈迦様だから病気にならないとか死なないのではありません。
 当然お釈迦様は、自分の身体に対する執着もなく様々な煩悩を断ち切ったお方ですから、病気や老いの苦しみも、なんなく受け入れられたと思います。
 
 人は様々な災難や苦しみ悲しみを必ず経験することになります。
 そんなときにも心の支えになるものが、お釈迦様や仏教者の教えと生き様にはあります。
 
 私は、良寛さんのおっしゃる「災難にあうときには、災難にあうのがよろしい。それが災難を避ける方法だ」の言葉を転じて「死ぬときは死ぬのがよろしい」と覚悟するようにしています。
 このくらいの覚悟があれば、小さなことはへでもないですよね。
 しかし、実際の私は、めずらしく頭痛でもすれば、脳梗塞ではないかと不安がよぎり、痛みに耐えかねて右往左往して、夢中で般若心経など唱えています。
 人間なんて、そんなものだと思います。 
 理想と現実には、かなりの違いがあっても、自分というものに執着しない、欲に執着しない、人からよく思われたいなどとは思わない、愛する人にも執着しない、すべてを受け入れていくことは大切な生き方だと思っています。
 どこかで、腹をくくるというか、ふんぎりをつけるというか、思い切ることができないことも多かろうと思いますが、執着を断ち切りることも大切かと思います。
 (煩悩無尽誓願断)全宗派で称える四弘誓願の二番目は、煩悩無尽誓願断です。
 様々な煩悩があります。煩悩はあってあたりまえのようですし、それは断ち切っていかなければならないものだということも、ずいぶん昔から言われ続けてきたことなのですね。
 
 
今朝、ふと目にとまった記事がありましたので、紹介します。
 

老いも病も受け入れよう』(新潮社)が、5月31日に出版される。94歳を迎えた寂聴さんが若さと長寿について初めて綴ったその思いは、本のタイトルにもこめられており、

「人間は老いるし、病気にもなる。なりたくなかったら早く死ねばいいの。結局、反対したってなる。いかに私が病気の時に嫌な思いをしたか、苦しかったか、友達から優しくしてもらって嬉しかったか、その辺を全部書きました」

 すべてを受け入れたという寂聴さんは、闘病中も、“仕方ないから戦わなかった”という。法話では質疑応答の場が設けられ、参加者からの人生相談が寄せられたが、そんな人々に寂聴さんはこう説くのだ。

「お釈迦様は、この世は苦だとおっしゃってらっしゃいますからね。苦しみがないっていうのは、ちょっとおかしい(笑)。でも、それが人生ですからね。私一人がこんな目にと思わないで、これが人生だと思って生きてください」

(デイリー新潮編集部記事を参照)








「仏様のそばで、お昼寝はどうでしょうか。」  2016.8

夏になると、ふと思い出す話があります。

 浄土真宗の熱心な信者(妙好人)として有名な人がいたのですが、その妙好人が真夏のある日、仏壇の前で胸をはだけて気持ちよさそうに昼寝をしていたのです。たまたまこれを見た、やはり信心深い人が、「妙好人と言われる人間が、そんな恰好で阿弥陀如来様の前で昼寝をするなど、けしからん」と注意をしたら、妙好人は「おまえは、継子(ママコ)か」と言ったとのことです。
 妙好人は、阿弥陀如来のことを実母のように思い安心して甘えていたのでしょうね。
 注意した人も妙好人の言葉に、はっとするものがあったのではないでしょうか。
 それでなければ、この話しは伝わりません。
 とかく、私たちは、世間体というものを気にしすぎるようです。他人の目を気にしたり、形式にとらわれたりで、本来の大切な心を見失っているのではないでしょうか。

 仏は、衆生無辺誓願度、すべての人々を救いたいという誓いのもとに悟りを開かれたのですから、優しさにあふれています。

 良寛さんにも、母の故郷からわざわざ取り寄せたお地蔵さまを、いつのまにやら枕変わりに使用していたというお話しがあります。
 一休さんも、蓮如上人が留守の間に訪問してきて、阿弥陀如来か親鸞聖人の坐像であったと思いますが、それを枕にして昼寝していたという話しがあります。(決して、阿弥陀如来や親鸞聖人をあなどったのではありません。一休さんは、蓮如上人と仲がよく臨済宗から浄土真宗に改宗しようとしたほどです)

 私たちは、世間体とか、社会的評価とか、常識とかを気にしすぎているのではないでしょうか。
 競争社会に染まって、他人との比較の中で、一喜一憂していると、なかなか安定した安心というものはありません。

 仏教は、優しさにあふれ、たとえ厳しさがあったとしても本来はおおらかなものであると思います。
 信心はあるようでない人もあるでしょうし、ないようである人もあるでしょう。 本当の信心の見極めは難しいとは思いますが、妙好人や良寛さんや一休さんのような、本当の信心ある人にめぐり会えた人は幸せです。

 仏は、すべての人を救いたいという誓願の上に悟りを開かれたのですから、私たちは、すでに救われているはずなのです。 私は、このことが20代の後半から、漠然と気になっています。しかし60歳になっても、このことは、はっきりとはしません。

 白隠禅師の坐禅和讃の冒頭は、「衆生本来、仏なり」です。
 般若心経の後半は、過去現在未来の諸仏が、この上ない悟りを開かれた。安心しなさい。この悟りは、一切の苦しみを取り除いてくれるです。
 仏教各宗派で称える四弘誓願の第一番目は「衆生無辺誓願度」です。
 
 どうやら、私たちは救われているようだし、救われる方法もあるようなのですが、そう簡単にはわからない。
 わからないなりに、苦しいときや、悲しいときには、仏様の優しさや教えを思うと、心は少し軽くなりますよ。

 何はさておき、仏様は、限りなく優しい存在であるのだから、仏様に、少し甘えてもいいのではないかと思います。






「肯定、肯定、(絶対肯定)の世界」 2016.7

雨が降れば、外廻りの仕事をする人は、うんざりします。
私も、昔10年以上も営業マンとして個別訪問していたので、雨の日はやはりうんざりしたものです。
うんざりした気持ちで営業しても、成果は望めません。
自分で自分にやる気を起こさなくてはなりません。
運が良ければ、上司や周囲の人がやる気を起こさせてくれるかもしれませんが・・・。
自分なりに、毎日のやる気を引き出すことができるかどうかが、営業マンにとっては大切です。
 
かなり昔の話しですが警察官向けの雑誌で、聞き込み捜査の超ベテラン刑事の話しが載っていました。
そのベテラン刑事は聞き込み捜査は雨の日がチャンスだというのです。
雨の日は在宅率が高いし、隣近所の人目が少なくなるので、人目があると話せないことも話してくれます。
それだけではなく、そのベテラン刑事は、あえて雨にずぶ濡れの姿で聞き込みをするのだそうです。
そうすると、普段の日なら相手もしてくれないような人が「ごくろう様です。実は・・・・」と、有力な情報を提供してくれることが多いのだそうです。
考えてみれば、誰でも警察にはかかわりたくないし、人の悪口や、よくはっきりしないことを警察にあえて話したくはないでしょう。
ところが、一生懸命にずぶ濡れになりながらも聞き込みをしている刑事さんの姿を見れば、ごくろう様と思うし、少しでも協力してあげようと思うのが人の人情だと思います。
 
大手靴会社のセールスマンが、アフリカの各国に行き本社に第一報を入れたそうです。
一人のセールスマンは「ほとんどの人が靴を履いていない、売れる見込みはほとんどない最悪の国だ」
一人のセールスマンは「ほとんどの人が靴を履いていない、これからいくらでも売れる最高の国だ」
 
コップ半分の水も「半分しかない」「半分もある」と真逆の見方ができます。
 
ピンチはチャンス。
 
禍福はあざなえる縄のごとし。
 
私の親戚の女性が、農作業で指一本を切断して失くしたので、私の友人が慰めたら、彼女は「指1本の切断だけですんで良かった。」と本当に喜んでいたそうです。
彼女は、一言二言言葉を交わした程度のお付き合いしかない親戚の女性なのですが、この話しを、私は誇らしく記憶に留めています。
 
お釈迦様の弟子に、元王様がいました。その元王様が、いつも幸せだと言っているので、他の弟子の一人が「王様が出家して、乞食の生活をして本当に幸せだと思っているのだろうか。嘘をついているのではないか」とお釈迦様に聞きました。お釈迦様は、元王様の本人に聞いてみなさいといわれました。元王様は「王であったころは、いつ他国から攻め込まれるか、いつ殺されるかと毎日が心配だった。今は、出家してその心配が一切なくなったので、幸せでいっぱいなのだ」と答えました。
 
当店のお客様で妙齢で美しく賢い方がいらっしゃいます。若い頃は、さぞかし美人で男どもからもちやほやされた経験もおありになったであろうと思います。
そのお客様が「姉がすごく美しい人だったの。〇〇の僧正様も若い頃、姉に手紙を書いてよこしたのよ・・・」お話しをうかがっているうちに、お客様は姉妹の中では、お姉さまがはるかに美しい存在で、ご本人はコンプレックスを感じていらしたのだと思いました。でもそのコンプレックスが、美人を鼻にかけないさばけた性格につながったのではないかと思います。
 
否定もよし、肯定もよし。それぞれによさはあるものです。
人が変わるとしたら、そうだな、と思ったときです。
そうだなと、思った人が一人でもいらっしゃれば、それはよかったと思います。







「常懐悲感心遂醒悟(じょうえひかんしんすいしょうご)」 2016.6



常懐悲感心遂醒悟(じょうえひかんしんすいしょうご)という言葉があります。
一般的には、常に心に悲しみを抱いていれば、心は醒めて遂には悟りに至るという意味だと思います。
法華経如来寿量品に書かれている言葉です。)
毒を飲んだ子供が、父である医者が作った解毒剤を毒の作用で薬として信じることができずに飲んでくれない。
そのままでは、毒に侵され、子供は苦しみながら死んでしまう。
そこで医者である父は、子供の心を覚ますために、子供から離れ旅に出て、父が死んだという嘘の知らせを子供に伝える。
子供は、父が死んだという悲しみになげき、やがて心が覚めていき、解毒剤を薬として信じることができるようになり、ようやく解毒剤を飲み、子供は毒の苦しみから救われ、命も助かったという話です。(法華経には、このような童話のようなたとえ話がたくさんあります)
 
ちょうど10年前、私が25年間務めたグループ会社が倒産しました。
その数か月後には、そこはかとなく優しく男らしかった上司が膵臓癌で亡くなりました。
そして、それから1月もしないうちに私は妻の浮気に気づくことになりました。
浮気の一つや二つは許す気持ちはあったのですが、どうも様子がおかしい。
妻に男と別れろと言ったら、「あなたと別れます」と言われてしまいました。
結婚して13年間、子供の教育を中心に意見の食い違いはありましたが、愛し合っている夫婦だと思っていました。
一番妻に支えてほしいときに、妻は私を裏切ったのです。
さすがに、私の心も悲鳴を上げたいほど、心ここにあらずの状態で、どうしようもない不安と悲しみでいっぱいでした。
駅のホームを歩いていると、身体が線路にすいこまれそうで、命の危険も感じました。
思い余って、わが師に相談したら「わかれなさい」とのことでした。
この「わかれなさい」で、妻とは別れる決心をしました。
もっとも、未練たらたらで、恥ずかしながら土下座して妻に、もう一度やりなおしたいとお願いもしたのですが・・・。
妻は、私との別れを選んでいるようでしたので、きっぱりと別れました。
私はよく言えば熱血漢で激情型ですから、一歩間違うと、憎しみと怒りと絶望から、どんな事件が起きても不思議ではなかったはずです。
わが師の「わかれなさい」の言葉がなかったら、私は、どうなっていたのでしょうか。
今でも、私の周囲の人たちは、別れた妻がどうしているのだろうかと、私に聞きます。
私にすれば、忘れかけた古傷にさわられて、少し痛いのですが、笑って聞き流すこともできるようになりました。
一つの悲しみも10年もたてば、遠い過去の思い出です。
 
ところで、私なりの解釈では、常懐悲感心遂醒悟(じょうえひかんしんすいしょうご)は、悲しみは人にしゃべったりせずに、静かに心に常に抱いていなければならない。
そうすることによって、心は醒めて遂には悟りに至る、ということなのです。
私は、自分の悲しみの一つを、多くの人にしゃべってしまいました。
でも、まだ、人にはいえない悲しみが、私には一つ二つあるのです。
この悲しみを、今、しばらく胸にしまって、生きていこうと思います。








「真実を求めてひとすじに生きん」 2016.5

私は、社会や人から束縛されたりするのは嫌いだし、信心は大切だと思っていますが、盲信では困ると思っています。
真実なものは、慈悲や愛に満ちて大らかで、ユーモアにもあふれるものだと思います。
仏法は、人々を苦しみから救い、人間の幸せな生き方を教えてくれます。
師のない、仏法というものはないと聞いています。
仏法を学ぶためには、師が必要です。
私の師である良寛と紀野一義先生も、最近の坊主は私利私欲にはしって、仏の道を学ぶことを忘れている者が多いと痛烈な批判をしています。
まあ、いつの時代もそうです。
師とあおげる師をもつことの難しさもあります。
浄土真宗では、同行という言葉を聞きます。
師弟関係ではなく、ともに仏法に学ぶ道を行く者ということでしょうか。
日本には、仏教というすばらしい教えがあるのに、この教えを知らず、教えを求めてさまよう人も多いように思います。
私たちは、遠くにあるものばかりを求めて、身の回りにある、すばらしいものを見落としていることが多いようです。
この大都会東京にも、タンポポや雑草がたくましく咲き、家々の軒下や庭には、季節折々の美しい花が咲いています。
私たちは、見ているようで見ていないことも多く。
気づけば、意外と美しい世界が、身近に開けるように思います。






「心ひろびろとさわやかに生きん」 2016.4

人間どのように生きるのがよいのかわからなくなることがあります。
鬱状態というか、朝からやる気が湧いてこないとき、いくら考えても、どのように生きるのが良いのかわからないときに、このごろは理想として「心ひろびろとさわやかに生きん」と、自分に言い聞かせます。
プライドなんか捨てて、バカと思われようが、損をしようが、小さなことにくよくよせず、さわやかに生きる。
なかなかそうはいかなくても毎日自分に言い聞かせていれば、また、あの頃のように、さわやかに生きれるのではないかと思っています。

小学校5年生の時に、幼稚園から一緒だった里見ちゃんという女の子が脳腫瘍の手術後に亡くなりました。
足の早い子で、生きていれば、おそらく陸上選手として、またスポーツ選手として大活躍したのではないかと思っています。
幼い時から、悩みを抱えた僕でしたが、彼女とたまにかわす会話で、妙になぐさめられていたのです。
彼女が生きていれば、ひょとして、彼女は僕の世話女房になっていたかもしれないと思うことがあります。
しかし、ずいぶん、彼女を泣かすような生活をして、僕自身はやりたい放題、彼女は、それでも笑って見守ってくれたかもしれません。
僕は、彼女の死がやはりショックだったのでしょう。彼女が亡くなった夜から高熱が出て、翌日の葬儀には、クラスで僕一人が欠席してしまいました。
それからは、毎月12日の月命日には、中学を卒業して地元を離れるまで欠かさず、彼女の墓参りをしました。

中学時代も嫌なことが山ほどあったのですが、彼女(里見ちゃん)の墓参りをして、そこで何もかも忘れて、一度死んだつもりで、日々をやりなおそうと思いました。
里見ちゃんが、死んだということで死というものが怖いものではなくなりましたし、逆に早く死にたいと思うようになっていましたから、怖いものが無くなったように思います。
何もかも捨ててしまったようなものだから、執着心がなくなり、すっきりしたのかもしれません。
悩んだら、里見ちゃんの墓の前で手を合わせていれば、すっきりした気持ちになる。
人から、馬鹿だといわれようが、生意気だといわれようが、キザな奴と言われようが、あの頃は、ほとんど気にしなかったですね。
しかし、思い切りよく生きていましたから、勉強もスポーツもよくできるようになり、知らない間に、プライドができ、偉くなりたい、もっと人から認められたいなどと欲が出てきました。
このあたりから、生き方を間違ったのかもしれません。

また人一倍不幸な出来事も経験したせいもあるのか、僕の60年の人生は、幸せ感の少ない人生だったと思います。
はためには平凡な生活を送っているものの、安心感というものがない。
何か不安な思いがします。
自分に執着しているのではなく、家族をはじめ愛する人々に執着するというか、世界中の様々な不幸に目をむけると暗い気持ちになります。
自分一人の幸せでは、幸せにはなれません。
できる限り、大勢の人々に幸せになってほしいと思います。
これは、執着です。苦しいのは、何かに執着しているのですね。その執着を捨てるとか、心の持ち方一つで、どんな状態でも、心の平穏は感じることはできるのではないかと思います。
一見、世界中には不幸な人であふれているようですが、本来、人間は、どんな生き方をしようが、救われているのではないかと思うようになりました。
この思いを持つようになって、少し僕にも安心感のようなものが、芽生えはじめました。

白隠禅師の坐禅和讃の冒頭は「衆生本来仏なり」です。これは、本来はすべての人間が仏様ということです。
阿弥陀如来も釈迦如来もすべての衆生を救う(救えないのなら悟らない)という誓願のもとに悟りを開かれたのですから、本来、すべての人々はすでに救われているはずです。
それが実感できなくて、悩み苦しむ愚かさです。
これが、一般的な人間の姿なのかもしれませんが・・・。

人間は悩むもの。悩みながらも生きていくもの。
迷いもない悩みもない極楽浄土は、さぞかし退屈でしょう。
迷いがあるから、悟りがあるので、悟れば迷いも悟りもなくなります。
迷っても悟っても、「衆生は本来仏」というひとことを信じたいものです。

さて、どろどろした、この世の中、いかに生きていくのか。
やはり「心ひろびろとさわやかに生きたい」ものです。
                         (野田)