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2024.7  良寛69才貞心尼29才の恋

 

 私が20才になる前の冬のある日、高校生の頃から通った本屋で良寛の漢詩集に出会った。

 私は、一つの漢詩を読み良寛の孤独を感じてしまって、その漢詩集を胸に抱きしめたように思う。

 漢詩集と和歌集を買い求めて、それ以来、漢詩集は48年もの間、私のそばにありつづけている。

 和歌集は、なぜか、ほとんど読んだ記憶がない。その本の所在も確かではない。

 私が20才になり、瀬戸内の因島で勤務していたころ、大学で良寛の和歌を研究したという高校の女性教師に出会った。

 その先生から、初めて良寛と貞心尼の恋と和歌について教えてもらったことがある。

 だから、その頃は、それとなく和歌集にも目を通したはずである。

 漢詩集には、良寛の恋心らしきものは、見当たらない。

 唯一、良寛が長年愛していただろう維馨尼(いきょうに)の江戸行きを心配した漢詩の中に「天寒自愛」(てんさむしじあいせよ)という有名な一文がある程度である。

 もっとも、維馨尼の方はそれほど良寛に対して、特別な思いはなかったのではないかと思われるが・・・。

 

 確かに最晩年の良寛は貞心尼を恋しく想い、貞心尼は良寛を仏道と和歌の師として慕っていたようである。

 二人が出会って短くも4年間、二人はしばしば逢う瀬を重ね、73才で良寛が亡くなる前、良寛は貞心尼に会いたいと和歌を送り、ようやく会えた嬉しさを和歌に残している。

 良寛の最後を看取り、最後まで良寛と和歌をやりとりしたのは貞心尼である。

 

 今、私は68才だが、二十代の女性から、時々、恋文のような手紙をもらい、やはり、良寛と貞心尼のことを思い出さずにはいられない。

 私は、こうしてブログを月一度書くが、年賀状も暑中見舞いも何十年もの間、書かないほど、筆無精である。

 もらった手紙に返事の手紙を書くことはないだろう。

 もっともラインでは、その彼女と普通にやりとりしているのだから、それほど特別なことでもないのだが、その彼女、少し変わっていて、会うたびにどきりとさせられることがあるのだ。

 手紙も、その都度、何か妙に、心に突き刺さる。会ったときの仕草も、妙に、印象深い。

 さてさて、今後、どうなるのやら・・・。嬉しくもあり、いずれの日かの別れを思うと、寂しくもあり。

 今は今、ひと時でも、男と女のめぐりあいを、よしとして、美しく生きていきたい。

 

 

 

 良寛が死期を前にして貞心尼に贈った和歌を紹介します。

 

あづさゆみ春になりなば草の庵を とく出て来ませ逢ひたきものを

(暖かな春になったならば、一日も早く庵を出て、わたしの所へ訪ねて来てください。お逢いしたくてならないのだからね)

いついつと待ちにし人は来たりけり 今は相見て何か思はむ

(いつ来るか、いつ来るかかと思っていた人は、ついにやって来てくれたことよ、今はもうこのように対面できて、何を思おうか、いや思うことは何もない)

うちつけに飯絶つとにあらねども かつ休らひて時をし待たむ

(だしぬけに、食事をやめたというのではないが、前もって心や身体を楽にして、死期を待とうと思うのだよ)

※貞心尼の「かひなしと薬も飲まず飯絶ちて、みづから雪の消えゆるをや待つ」に答えた歌。

  良寛が貞心尼に詠み与えた和歌(良寛の名歌百選  選・谷川敏朗 写真・小林新一 考古堂出版より)

 


49年間、私のそばにありつづける良寛詩集(東郷豊治編著 創元社刊

 

 

 

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 自誓

   一、 心ひろびろと、さわやかに生きん。
   一、真実をもとめてひとすじに生きん。
   一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。









2024.6
  師のない仏法はない(仏法は人から人へ伝わる)

 

 何度かこのブログでも紹介した暁烏敏(あけがらすはや)に、著名な評論家の亀井勝一郎が仏教についてあれやこれやと語りつくしたときに、暁烏敏はそれを黙って聞きながら、最後に「あなたの仏教の師は誰かね」と聞いたそうである。

 亀井勝一郎は「それが私の課題です」とこたえたそうであるが、たぶん亀井勝一郎は師には巡りあわれなかったのではないかと思う。

 師のない仏法はない。仏法、誠の仏教の教えは書物によっては伝わりにくいものなのであろうと思う。

 親鸞は、弟子の一人も持ってはいないといった。浄土真宗では、同行という言葉を聞いたことがあるが、それは、阿弥陀如来への信仰を同じくし、同じく仲間として生きる者同士というような意味合いではないだろうか。

 紀野先生は、著名な仏教学者、仏教伝道者でもいらしたが、師と弟子という関係よりも、弟子のような存在にも、同じく仏教に帰依する我が友人とでもいったニュアンスで接していらした。

 先生の著書を読むと、私の若き友人という言葉が出てくる。その友人とは先生の真如の会員なのである。弟子ではなく、友人なのである。

 

 紀野先生の人生の生き方に大きく影響を与えたのは鎌倉円覚寺の朝比奈宗源老師と京都南禅寺の柴山全慶老師である。

 このお二人は紀野先生の師と言ってもいいだろう。

 このお二人の師には、紀野先生は何十回もひょっとして何百回もお会いになった。

 

 やはり紀野先生には「仏法のようなものは、師のような人を通じてしか伝わらない」という思いがあったのではないかと思う。

 だから紀野先生は、「私の話を直接聞きに来てほしい。私という人間を直接見て、聞いて、仏法に触れてほしい」という思いがあったのではないかと思う。

 

 紀野先生が主幹の真如会は、せいぜい数百名の会員で、それ以上に会員を増やすお気持ちがなかったようだ。

 先生が直接面倒をみられる範囲内の会員で十分であったように思う。

 それどころか、師が弟子を育てるならば、せいぜい数名の弟子で十分だとのお考えもあったようだ。

 晩年の先生の主催される集まりは、百騎の会で10名前後、東京や京都の例会で20名前後であった。

 新興宗教によくみられる会員獲得などの話しはまったくなかった。

 ただ一度「大切な話をしているのだから家族も誘ってきなさい」と言われたことがあるのを、私も記憶している程度である。

 そのせいか私は百騎の会には妻を連れていき、谷中の全生庵には子供を連れていったものだ。

 その後、妻と離婚することになったときに、先生に相談したが「別れなさい」ということだった。

 妻も先生にお会いしているし、私は、きれいさっぱり別れようという決断ができた。

 その時、先生が「同じ経験をしたものでないと、その苦しみはわからないよ」とおっしゃって、先生の頬が一瞬赤らんだ。

 私には、その意味がよくわからなかったけれど、数年後に、その意味を知って、やはり、何事も本当に理解するには、自分で経験しなければ、わからないということなのだとも思った。

 

 仏法は、経文を勉強し、数々の書物を読むことによって理解されるものではないということであろうと思う。

 逆に、道元が言うように悟るためには経文の一文字も知らなくてもよいということである。

 悟るには、お坊様でなくてもよいともいえる。

 おばあちゃんが「今日も、生きています。ありがたいことです」という。また「人生はなるようになる。大丈夫、心配せんでもいい」という。

 残り少ない人生で、人生を達観しているお年寄りも多いことであろう。

 

 そういうおじいちゃんやおばあちゃんに接すると、人はほっと安心するものである。

 この安心は、書物やインターネットでは味わえない安心である。

 

 残り少ない人生。年をとることによって、人生というものが見えてきているお年寄りも多いと思う。

 子供や孫に、人生は、どんな生き方をしようが、どんなことが起きようとも大丈夫だ、何とかなると伝えられるお年寄りは素敵だと思う。

 







※紀野先生88歳前後、私が54歳前後の写真 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 自誓

   一、 心ひろびろと、さわやかに生きん。
   一、真実をもとめてひとすじに生きん。
   一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。








2024.5
  釈尊の最後の言葉

 

 紀野一義先生の著書を読むと、釈尊の最後の言葉は、パーリ語で書かれた古い経典「大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)の中に記録されているようである。パーリ語では、下記の表記になるようである。

 

(ヴァヤダンマー・サンカーラー、アッパマーデーナ・サンパーデートウハ)

 紀野先生は、これを「比丘(びく)たちよ、汝らに告げよう。こころ(サンカーラ・行)は移ろい易いものである。見落とすことなく、その中に居よ」と訳していらっしゃる。この訳は、中国人が訳してきたところと違うようである。釈尊の弟子たちも、いつも釈尊がおっしゃっていた諸行無常と諸行壊法とは同じであると思い込んだようである。でも釈尊が言われたのは諸行壊法であり、わざわざ大般涅槃経の中で諸行壊法と書かれているのだから、そこには重要な意味があるようである。

 難しいことは、さておいて、釈尊の最後の言葉は「こころは、うつろいやすいものである。そのこころを、じっと見つめていなさい」と、私は、解釈した。

 このことに関連して、下記の私のブログを読み返して、我ながら、非常に大切なことを言っているなと思い、再度掲載さえていただく。

 私自身が、私の書いた文章を読んで、なるほどと思うのだから、誰かしら、ある人々もなるほどと思われたかもしれないし、また、あらたに、なるほどと思われる人がいるかもしれないことを期待して・・・。

 

 

 

2022.1 自分自身を知るということ

 

良寛の漢詩の中に、「おのれの心を知れ」ということばが出てくる。

 

 

 たとい万巻の書物を読破したところで、真の言葉一つわきまえていることに劣る

 その真の言葉とはなにか、ありのままにおのれの心を知れということだ。

 

 

 

 デルフォイのアポロンの宮殿の奥に掲げられている、秘密の格言は、「汝自身を知れ」だ。

 

明治時代の浄土真宗の僧であり哲学者であり教育者であった清沢満之は、浄土三部経の中にある「自当知」(みずからを知れ)という言葉に出会い、以後、自分自身を知ることに一生をかけた人である。

その弟子の暁烏敏も自当知、(自分自身を知ること)(自分の心を知ること)に全力を尽くした人である・・・・・・。

 

 

※自分自身を知る、自分の心を知る、自分自身を見つめていくことは、非常に大切なことのようだ。

 

 

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

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   一、真実をもとめてひとすじに生きん。
   一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。








2024.4  
臨死体験

 

 一度死んで生き返ったという話しは、耳にしたことはおありではないかと思う。

 アメリカの学者が、この臨死体験をした人の調査を行ったところ、いくつかの共通点があったそうである。

 一番目は、死後の世界が美しいということである。高く上昇していけばいくほど驚くほど美しい世界になり光に満ちた世界だそうである。

 二番目は、生き返ってみると、全ての人間が自分の親や子供兄弟のようにいとおしく感じるようになったということである。

 芥川龍之介は自殺したが、死ぬ前にはすべてが美しく感じられるようになったことを記している。

 あまり死後の世界が美しいと強調すると、死んでしまいたいほど苦しんいる人が、それなら死のうかと思って、さっさと死んでしまうかもしれないので、何ともいいがたい。

 キリスト教では自殺は、厳しく禁じられているようだ。

 仏教では、死ねとはいわないが、阿弥陀如来のもと、極楽浄土に行けるのだと思うと、死というものが喜びにもなりそうである。

 しかし、私たちは生きねばならない。自殺は、やはり逃避である。人間は、悩みや苦しみ悲しみの中で、人を愛し、安らかに幸せに生きていけるくらいまでに成長しなければ「ならない。

 それができるまで、人間は何度も何度も生まれ変わり、同じ悩みや苦しみ悲しみを受ける。

 悩み苦しみ悲しみが、悩み苦しみ悲しみでなくなるときに、この世に生きても永遠の幸せを得ることができるだろう。

 そして、そのとき、人間はもう人間世界に生まれ変わることはない。

 そうして、次なる美しい世界へと旅立つのだろう。

 さてさて、どんな世界やら・・・。

 

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
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2024.3
   AI(人口知能)に悟りはあるのか

 

 私は、フェイスブック、ライン、ユーチューブを利用しているが、最近やたらとAI(人口知能)を利用して作成したと思われるフェイクニュースや詐欺的な投資の勧誘が多い。

その被害も莫大だが、なんだか野放し状態になっている。世界的な大問題だと思う。

 すでに仏教の教えについてもAI(人口知能)を利用して、もっともらしく説法しているのを見受けるけれど、彼らの目的は何なのだろうか。

 ユーザーを増やして、広告費を得ようとしているのだろうか。新しい教団でも作って巨大な宗教団体を作ろうとしているのだろうか。

 今のところ、微妙に漢字の読み違えなどがあり、AI(人口知能)で外国人が作成しているらしいことはわかるが、彼らの目的はよくわからない。

 AI(人口知能)が、これから益々進歩していくと、まるで優れた仏教者、いや、世界最高の仏教者として、仏教を語り始めるのではないかと思う。

 

 そしてAI(人口知能)が悟りを得たらどうなるのであろうか。AI(人口知能)は悟ることができないのであろうか。

 

 もうじき、このような問題が、現実問題として論議されるときがくるのではないかと思う。

 

 戦後合成麻薬LSDが違法ではなかったときに、アメリカの若者たちが、LSDを使用すると悟りの境地を体験できるということで多くの若者が使用したようだ。

 

 そのころ、南禅寺の柴山全慶老師は、LSDで経験した感覚は悟りとは違うということをはっきりおっしゃっている。やがてLSDはその常習性と薬害で違法薬物とされている。

 AI(人口知能)が説く仏法を聞きながら、なるほどと思わせられるが、これを信じてよいのか、行く着く先はなんなのだろうかと思う。

 AI(人口知能)を駆使する、背後の人物と目的がわからない。

 

 同じユーチューブで円覚寺の横田南嶺管長が法話を配信しているが、これはいたって、健全である。

 横田管長はおそらく今の仏教界の第一人者なのだと思うが、そのうち、横田管長の法話のレベルを超えたと思わされるような法話がAI(人口知能)によってなされる可能性があるのである。

 僧ではないAI(人口知能)が、僧よりも僧らしくなってしまう。

 多くの人間がAI(人口知能)を信仰するようなことも起きるのである。

 AI(人口知能)の方が、間違いがないと主張する人間も出てくるだろう。

 

 どんな時代がこようとも、それなりに、自分らしく生きていきたい。

 私には、故郷がある。

 のんびり、米や野菜を作って、自給自足の生活も楽しめると思う。

 多くの人が、そうはいかないと思うが、世界中が新しい変革の時を迎えているのかもしれない。

 

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
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2024.2
   良寛さんの芸術観

 

 良寛さんは、子供達と手毬をついたり、かくれんぼをしたりと、子供のように無邪気な人柄のようだが、良寛さんの内面はなかなか手厳しいものがある。

 良寛さんの漢詩を読んでいると、「世の中で名僧、高僧といわれる僧に会って、問答をしてみても、まだまだである」と手厳しい。

 良寛さんの悟りがどんなものであったのか知りたいが、「悟りはあるが、それは口にすれば、たちまちに壊れてしまいそうなものだ」という。

 おそらく詩のような形式でしか、それとなく表現するしかないようなものなのだろうと思う。

 その漢詩や和歌や俳句から、それとなく感じとっていくしかないのかもしれない。

 和歌についても、良寛さんは「何々流とか、何々調といった和歌を巧みに作っても、そこに、その人が表現されていないような和歌では、駄目だ」という。

 人まね、技巧的に巧みなものは駄目だという。だから良寛さんは、書家の書、調理人の料理といった、技術的に巧みなものは好きではなかった。

 

 良寛さんが子供と遊ぶのは、「子供には誠というものがあるから」とも言っている。

 

 そんな良寛の芸術観を感じながら、私が50年以上も前の小中学生の頃にテレビで見た「佐伯祐三画伯の人生ドラマ」の中で、パリに留学した佐伯祐三が著名な画家を訪ねて自分の作品を見せた時に「人まねにすぎない。こんなのは駄目だ」とけんもほろろに突き返された場面がよみがえる。

 最近AI(人口知能)が話題になることが多い。その知識量は莫大で表現方法まで、まねることができるのであるから、和歌でも何々調、良寛調と言ったものも現れるだろう。

 アドビのAI機能でイラストを制作したことがあるが、「竹やぶで空中を飛ぶ、かわいらしいかぐや姫」と入力したら、すぐに何種類かのイラストが表示された。

 ちょっとしたイラストレーターやデザイナーは、もう太刀打ちできなくなると思う。

 

 仏教の世界も、ユーチューブを利用してAIが和尚になりきって教えを説きはじめた。下手なお坊さまの説法より説得力がある。しかし、真実や悟りといったものとは違うと思う。

 

 今までも、器用で賢い人間は、人まねをして、それとなくその人になりきってきたのだろうから、AIが悪いともいえないだろうが、何が本物なのか、真実なのか、益々、判断しづらいことになった。

 

 良寛さんがいう「子供には誠というものがある」、はたして「AIには誠というものがあるのであろうか」

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。

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2024.1  テキストに頼らない

 

 良寛さんが50歳を過ぎたころ、6歳年上の江戸では有名な儒学者であった亀田鵬斎が越後に住んだことがある。

 良寛がある日、この亀田鵬斎の話しを聞きにいったところ、孔子の教えの一説があり、「孔子が天子から授かった名馬を飼育していた馬小屋が焼けた。その時、孔子は、馬はどうでもよい、人は大丈夫かと言ったという」

 この一説に対して良寛は、亀田鵬斎に「そこのところは、まずは、人は大丈夫か、馬は、どうであったかと訳すべきだ」と言った。

 亀田鵬斎は「昔からここのところは、解説書ではこのように訳している」とこたえた。

 良寛は「解説書に頼っているからいけないのだ。人命が一番大切だが、馬の命はどうでもよいというと、孔子の人格が下がったことになる」

 これを聞いて亀田鵬斎も、なるほどと思ったに違いない、その後、亀田鵬斎と良寛は、親しくつきあい、いくつかのエピソードも残っている。

 やがて亀田鵬斎は、江戸にもどったが、「鵬斎は越後帰りで字がくねり」という川柳が江戸では流行ったらしい。

 鵬斎は、良寛の子供のような素朴な文字にひどく感化されたようである。

 

 私たちは、教科書や解説書を読むと、それが正しいと思いがちだが、そこで大きな思い違いをしてしまうかもしれない。

 

 学問や知識や教養が、物事の本質を捉えているわけではない。

 

 昔から「畳の上の水練」「百聞は一見にしかず」という。

 

 頭の中で、こねまわしてわかったような気にならないようにしたい。

 

 やはり、心で、魂で感じるものを大切にしたい。

 

 なぜ、こんなことを書くかといえば、わたしの出生について、私自身が何も知らず、社会的な公的文書も間違っているからである。

 

 私の戸籍謄本は、今の両親から私が生まれたことになっているが、実は、私の母は別に存在していたのだ。

 

 子供の頃から、ひょっとして、私の父親は、別にいるのではないかという思いはあった。

 

 どこか、実際に深く愛されていない、実の親の愛を知らないような孤独感があった。

 

 高校から親元を離れ、地元を離れたので、私が、母親が違うということに気づいたのは30歳を過ぎてからのことである。

 

 地元に残っていれば、色々な噂が聞こえ、もっと早く気づいたにちがいなかったが、実家に帰ることがほとんどなかった。

 

 実の母は、ある意味身近な人で、私も、子供の頃から笑顔の素敵な聡明な人だと思っていたから、立派な人が我が母であったことは、幸せである。

 

 私の出生は、その母を、深く悩ませたことは間違いないのだが、その分、私も、しっかりと生きて、あなたを生んでよかったと、思ってほしいと、今は亡き母に思うのである。

 

 (真実、真相は、なかなかつかめないものです。テキストや常識、知識などに頼っていたら大切のものを見失いますよ)

 

 

 

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
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2023.12  もう生まれ変わらない

 

 人間は輪廻転生して、何度も何度も、いや何億回も生まれ変わり、どんな人間もいずれは仏となるという。

 お釈迦様を殺そうとした、ダイバダッタでさえ何億年何十億年という先の未来では仏になるという。

 その名も天王如来というらしい。(平楽寺版法華経347項)

 人間は、迷いや苦しみの世界から解脱して悟れば、もう生まれ変わることはないという。

 お釈迦様の言葉を書き留めたスッタニパータという本を読むと、悟りに至るか、もう生まれ変わることがなくなる方法がいくつも説明されている。

 

 私は、執着することだけは無くそうと努めているが、これも悟りに至る、一つの方法であるはずである。

 はずであるというのは、スッタニパータのどこに、はっきりと書かれていたかが思い出せないからである。

 今さら調べるのも面倒くさい。

 でも間違いなく、執着を離れるということは悟りに至る道であると思う。

 

 最近、やたらと夢を見ることが多いのだが、今朝、夢から覚めようとした時に、「もう生まれ変わることがなくなるよ」という誰かの声が聞こえた。

 生まれ変わることがないということは、仏教的には、理想かもしれないが、私は、何度でも人間に生まれ変わってもいいと思う。

 美しいだけの世界、喜びだけの世界には飽きてしまいそうだ。

 浄土はこの上なく、想像を絶する美しく喜びに満ちた世界なのかもしれないが、どうも退屈そうだ。

 やはり人間世界の醜い苦しい悲しい怒りの世界の中に、きらりと光る美しさを見出すことの方が、いいと思う。

 だから少々のことでは、弱音なんてはいていられない。

 

 やはり、こつこつと優しさをもって、真実を追究して生きたい。

 その中に、最高の喜びが待っているように思う。

 

 お釈迦様も、弟子のアナンに「お釈迦様には、欲はないのでしょうか?」と、質問された時に、「あるよ。最高の喜びを求めている」と、おっしゃった。

 私も、最高の喜びを求めている。

 

 それは、人間世界の中でこそ、見出せるのではないだろうか。

 

 もし、もう私が生まれ変わらないのであれば、私は、何のために人間に生まれてきたのであろうかと、悔いが残る。

 残り少ない人生、何とか、最高の喜びに巡りあいたいものだ。

 

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。

いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 

 自誓

 

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2023.11   リアルな夢の話し二つ

 

 最近なぜかしらリアルな夢を見て、いつもならすぐに忘れてしまうのに、今もその映像と感覚が思いだせる。

 一つは、四国の愛媛県らしい港の見える小高い丘の民家に私が住んでいて、真夜中に「核ミサイルが発射された」という緊急避難情報が流れた。

 外に出ると、水平線の向こうが一面夕焼けのように赤く染まっている。ああ、核ミサイルが着弾して広島も岩国も呉も火の海になっているのだなと思っていると、松山らしき街にも、ミサイルが飛び交い、ビルが燃え上がり、火の海になってきた。迎撃ミサイルが何発かのミサイルを打ち落としているのだが、あちらこちらで、火の手があがる。

 そのうち、核ミサイルが飛んでくれば、一瞬にして、私も焼け死ぬのだな、これが私の最後か、と思った瞬間目が覚めた。

 いやにリアルな夢であった。

 

 日本も、いつ戦争に巻き込まれても不思議でない状況になってしまった。

 この責任は誰にあるのか。国民にも責任はあるであろうが、戦争はしない、戦争はできない国から、今は、戦争になるかもしれない、戦争もできる国になってしまった。

 そのような国にしようとしている政治家の罪は重い。

 

 もう一つの夢は、何だか嬉しい夢である。

 二十代のころから知っているママさんのいる店で、なぜか眠くて眠くて、ついには寝込んでしまった。目が覚めると誰もいない。店の奥の部屋を覗くと、ママの後姿が見えた。ずいぶんとスタイルがよく若々しいママだ。私に気づいて「目が覚めたの。一軒、行きたい店があるから、つきあって頂戴」という。いつもつっけんどんで、誘われたのは、その時が初めてである。二人で歩いていると、私に寄り添って妙に甘えてくる。薄暗い路地に入ってママの顔を見つめると、彼女も見つめ返す。そっと口づけすると、拒まない。もっと、強く口づけすると、彼女がもっと強く返してくる。だんだん口づけが激しくなったところで、はっと目が覚めた。

 この夢も非常にリアルだったので、何だかずいぶん得をしたような、幸せな気持ちだった。

 思えば、何十年も何の進展のない、ママとの関係だが、一度、食事でも誘ってみようかなと思う。

 

 インドの聖者、ニサルガッタ・マハラジが、何やかやと世界平和のためにといい、世界平和のためにどうすれば良いのかと訴える若者に「ところで君は、一人の人間でも、本当に幸せにしたことはあるのかね」と言った。

一生懸命愛しても、その愛さえうつろい、愛するものが病気にもなれば、事故にあうこともある。愛して甘やかしていれば、人間は我儘にもなる。

 なかなか思うようにはならないのが、人の世だ。

 

 かと言って、思いやりや優しさ正義は美しいと思うし、自分の利益のために人を欺き、人を傷つける奴は好きではない。

 私も強烈に好き嫌いあり、善悪を感じる。しかし、この現実を恨んだり非難するだけでは、決して、人は幸せにはなれない。

 今の自分を肯定していく、今の自分のよさを認める、今の状況をいいなと思う、そして明るく元気よく生きたいものだ。

 紀野一義先生が、一番大切にされたのは「肯定、肯定、絶対肯定」の生き方だ。

 この生き方は、どんな世の中でも、どんな境遇でも、幸せをつかみとる生き方だ。


 世界中の人が、どんな状況でも幸せを感じることができる生き方なのだ、と思う。

 その上で、よりよい社会を作っていかなければならない。

 

 

 

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。

いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 

 自誓

 

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2023.10  量子論は東洋思想に似ている

 

 昭和30年~40年代のことであろうと思います。

NHKの取材で、デンマークの作家と朝比奈宗源老師が禅について対話しています。

その作家がいやに、禅について詳しいので、その理由を朝比奈老師がたずねたところ、デンマークでは毎日のように、新聞テレビ雑誌で禅についての話が語られているとのことでした。

デンマークはキリスト教の国ですが、聖書に書かれたことは全て真実だという教えには、学者や作家など真実を追求している立場の人間からすると、どうしてもついていけないというのです。

そしてデンマ-ク人で、量子論でノーベル物理学賞を受賞したボアという理論物理学者が「量子論は東洋思想に似ている」と言ったのだそうです。

そういうこともあって、デンマークでは禅が特にブームになったらしいのです。

現在のデンマークが、どのような状況かは知りませんが、そんな時代もあったのです。

 

 般若心経も相対性理論がわからないと理解できないと言った人もいました。

 

 仏教は意外と哲学的、理論的です。

 

 苦しみ悩みも、その原因が何であるか、では、どうすればいいのか懇切丁寧に説明しています。

 

 基本的に大切な教えは、無欲であり、無執着あり、無所有です。他にも色々あるでしょうが、この3つの内、一つでも成就したなら、苦しみ迷い悲しみもなくなり、悟りも得られるではないかと思います。

 

 私も、皆さんも、欲にからまれ執着するものがあり、色んなものが欲しい。

 

 私は、執着しないということを、自分に言い聞かせているのですが、なかなか、徹底することは難しい。

 

 だから苦しんでも、仕方ないと思います。苦しみながら、悩みながら生きていくのだと思います。

 

 しかし、仏の教えやすぐれた仏教者の教えには、よりよく生きるためのヒントがたくさんあります。

 

 私は道元の正法眼蔵を読み、親鸞の歎異抄を読み、良寛の漢詩集を読み、紀野一義先生の書物を読み、人間いかに生きるのか、自分はどのように生きるのか、試行錯誤しています。

 

 現代に生きる人に、よりよく生きるためのヒントは、投げかけていきたいと思います。

 

自未得度先度他(じみとくどせんどた)、自分より先に他人を悟りの世界に導け。自分が悟っていなくても他人をまず悟らせろ。このようなことを、道元禅師や紀野先生はおっしゃっています。 

 

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 自誓

   一、 心ひろびろと、さわやかに生きん。
   一、真実をもとめてひとすじに生きん。
   一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。

 

2023.9   宮澤賢治と暁烏敏のこと

 

 十数年前、東北を車で旅したことがあった。

 宮澤賢治の記念館に立ち寄った時、賢治が幼少のころ、仏教夏季講習での参加者の記念写真があり、賢治の父母、妹のトシが写っていたが、その時の講師として暁烏敏が写っていたのである。

 賢治のことは多くの方が知っており、賢治の父は熱心な浄土真宗の信者であったこと、最後は賢治によって日蓮宗に改宗したこともご存じだろうと思う。

 暁烏敏については、知らない人が多いと思うが、大正、昭和時代の浄土真宗大谷派の傑僧である。

 私も、このブログで紹介したことがあるのではないかと思う。

 私は、賢治の記念館の写真を見て、賢治と暁烏敏には接点があったことまでは知っていたのだが、先日、何気なくインターネットでその写真が目にとまって、その写真の掲載記事を読んで驚いてしまった。

 賢治の父と暁烏敏は、非常に親しく盛岡で暁烏敏の講演があるときは、賢治の家に何度も宿泊したという。

 暁烏敏の書き物の中に、宮沢家に宿泊して子供達と天真爛漫に遊んだということが書かれているらしい。

 これは、賢治を含む宮沢家の子供達で、特に賢治のことであったのかもしれない。

 賢治の仏教に関する目覚めは、暁烏敏が大きく関わっていることになる。

 当時、仏教夏季講習での暁烏敏は、歎異抄について講演したようであるが、賢治が友達に書き送った手紙にも、暁烏敏のことや、その教えの一説が出てくるようである。

 

 もとは知らぬうちに浄土真宗の信者として仏教に触れた賢治が、法華経というお経に触れて、日蓮宗系の国柱会の信者となり、家族も改宗させる。

 最愛の妹トシが亡くなるときに、トシは「死んだら、どこにいくのか教えてほしい」と思ったに違いないのに、極楽浄土に行くのだから心配ないと、教えてやることができなかったことを賢治はどう思ったのだろう。

 賢治は作品の中では、死んでも大丈夫だということを書いたものがあるが、本気でそう思ってはいなかったのだと思う。

 だから、妹のトシが死んで、苦しみ悩み、北海道の最北端まで旅をする。

 

 人間にとって死は、そう簡単にはわからない重大な問題である。

 

 私も、いまだに、死んでも大丈夫とは言ってやることはできない。

 でも、嘘でも「死んでも大丈夫だと」いいそうだな。

 ただ、死ぬときは、死ぬのがよい。生きる時には、生きるのが良い。自分が生きることには執着はしないぞ、と思う。

 生きながら、死人となり、なりはてて、思うがままになす、わざぞよき。

 捨てて、捨てて、捨て果てる生き方。

 せめて死んだら、阿弥陀如来や仏様のもとに、できれば、ご挨拶できたらいいな。

 死んでいった人々に、また会うこともあるのであろうか。

 死んだ実母には、恥ずかしくない生き方をしなければいけないな。

 できれば、生きているうちに素敵な人に会いたいな、と思う。

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 自誓

   一、 心ひろびろと、さわやかに生きん。
   一、真実をもとめてひとすじに生きん。
   一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。








2023.8
 如来はいまします

 

 明治大正時代に、浄土宗の僧として活躍された弁栄聖者の臨終の言葉は「如来はいまします。衆生はそれを知らない。弁栄は、そのことを知らせるためにやってきた・・・」とのことである。

 世界的数学者として有名であった岡潔先生は、この弁栄聖者を尊敬していて弁栄聖者の言われた「この世界には、まず一大心霊という心があり、その一大心霊の心がこの世のすべてを創りだして、この世界を眺めて楽しんでいらっしゃる。その一大心霊と同じ心を人間にもお与えになって、人間もこの世界を眺めている」ということを言われた。

 一大心霊は、この世界のドラマを眺めて楽しんでいらっしゃるのであろうが、人間の方は、この世界を生きることに、あたふたともがき苦しんでいるといったところであろうか。

 ドラマや映画や小説の世界なら、人間も少しは、その世界を楽しむことができるであろうが、現実世界を楽しむことは、なかなかできない。

 お釈迦様は、苦しみの原因は執着することだから、執着するなと言われたが、紀野一義先生は、苦しみは伴うかもしれないが、愛するものがあれば、とことん愛するという姿勢だった。

 そして、紀野先生は、人生は肯定して(肯定、肯定、絶対肯定)して生きなければならないとおっしゃった。

 法華経のことは、私にはよくはわからないが、法華経の神髄はこの絶対肯定であるともおっしゃった。

 人間が苦しむのは、執着することが原因でもあるが、もう一つ大きな原因が、否定する心である。

 どうしても、自分の現状や、他人や世界を否定してしまう。

 確かに、これは苦しみであり、不安である。

 人間少々、パァーな方がよい、馬鹿一直線、明るくさわやかに生きたいものである。

 (紀野先生は、そんなことをおっしゃっていたなあ・・・)

 

 そして真実を求めるような生き方をすれば、ドラマチックな出来事も起きようというものである。

 それを楽しみたいなー。

 一大心霊だけが、この世を楽しむのではなく、人間一人一人、誰もが、この世界を楽しむ力を秘めていると思うのである。

 

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。

いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 

 

自誓

一、 心ひろびろと、さわやかに生きん。

一、真実をもとめてひとすじに生きん。

一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。






2023.7
  生きながら 死人となりて なりはてて 思うがままに なすわざぞよき

 

 最近、江戸時代初期の無難禅師の道歌「生きながら 死人となりて なりはてて 思うがままに なすわざぞよき」を、何度も心で繰り返し、自分に言い聞かせています。

 自分に言い聞かせてはいても、この心境になりきることは、できないが、自分なりに、どこかすっきりして、心が少々のことでは動じないなと思う。

 もっとも、こんなことを文章にしてしまったら、せっかくの思いも、すでに霞んできてしまう。

 やはり、大切なことは、心にしまっておくのがよろしいようだ。

 

 なぜ、ならば書くのかといえば、少しは誰かのやくにたてばという思いからだが、はたして、どの程度、お役にたつやらわかりはしない。

 

 お釈迦様の言葉を書き留めたスッタニパータという本があるが、お釈迦様はしつこいくらい執着を捨てろと説かれている。

 執着することが、苦しみの原因であるということだ。

 死人には、この執着がない。だから無難禅師は死人になれというのだ。

 死ねと言っているのではない、生きながら死人となるのである。

 何事も気にしない、執着するなといっているのである。

 それでもって、思うことはやりなさい。

 人目を気にすることもなく、結果を気にすることもなく、やりたいことは、やりなさいよというのである。

 

 人間は失敗したり、おとしめられたり、侮辱されたり、耐えがたいことはいっぱいありますが、死んでしまえば、恥ずかしいの悔しいの苦しいのと、そんなことは一切感じない、気にしない。

 実際に死ぬ必要はなくて、一度死んだものと思って、すべてを捨て去り、執着を離れ、新しい日々を清々と生きていく。

 

 私も、子供のころから、死にたい苦しみ悲しみを経験してきましたが、死にたくなったとき、そのぎりぎりで、きれいさっぱり何もかも忘れて生きなおしてきました。無意識のうちに、生きながらん死んだんだから、何もかも忘れて生きなおすのです。

 結構、明るい生き方です。

 ただし、環境が変わったわけではないですから、同じような問題が繰り返しせまってはきます。

 でも不思議なもので、いつのまにか打たれ強くなっています。

 

 本当に困るのは、自分の命より大切なものを失ったときだと思います。

 人間やはり、心のバランスをくずし、絶望し、精神が病むだろうと思います。

 良き友や、時間が癒してくれるかもしれませんが、やはり医師にも相談した方がよいかもしれません。

 

 これが少し前の日本なら、寺の住職が村の長老に相談したと思います。

 今は、人生経験が豊富で頼れる優しき大人が身近にいなくなりましたね。

 

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。

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一、 心ひろびろと、さわやかに生きん。

一、真実をもとめてひとすじに生きん。

一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。












2023.6  純粋に生きることの難しさ

 

 純粋であるとか、優しいとか、簡単に言葉にするけれど、その生き方は非常に困難を伴い難しい。

 麗しき乙女も、優しき乙女も、天使のような乙女も、この世の荒波にもまれ、その純粋の心、優しき心がいつしか失われてしまう。

 ある人が、女一人生きていくということは大変よ、と言った。

 長いものに巻かれというけれど、自分の意志に反しても生きていかなければならないことは、男も女もよくあることだ。

 翻って自分は、不器用で、長いものに巻かれることができずに、浮き草のように、職場を転々とした。

 だから、わかる。同じように不器用に生きる人間が・・・。

 酒場で酒を飲んでも、妙に気があうのは、そんな人間だ。

 女性でも、妙に気が合うのは、そんな人間だ。

 でも心と心がふれあい、妙にお互いほっとしている。

 それだけでも人生は、生きている喜びではないだろうか。

 

2023.5 諸法実相、すべてがあるがまま。

 善も悪もなく。

 

 しかし、わたしの心に響き喜びとなるのは、たまに、いい奴(男も女も)と、巡りあえること。

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

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  人が生まれるとき、山河大地も、また生まれる

 

 私は、今でも紀野一義先生の書かれた本や、講話のCDを読み聞き続けている。

 これだけ繰り返し読み続けているのは、紀野先生の本とCD、そして東郷豊治氏監修の良寛詩集だけである。

 良寛詩集に関しては47年間のおつきあいになる。

 良寛は曹洞宗の僧であり正法眼蔵の言葉一つ一つが珠玉のようだといっている。

 紀野先生の正法眼蔵のCDを聞いていると、正法眼蔵は非常に難解だとおっしゃっている。

 CDの一番最初のお話しが「唯仏与仏の巻」なのだが、その中で、道元は「人が生まれるとき、山河大地も、また生まれる」と言っている。

 これは道元がいったのではなく、古仏(どの仏と特定されているのではない、ある昔の仏)がいったのであるが、この言葉を解釈するのは、道元自身も非常に難しいと言っている。

 また、しかし、この古仏がいった言葉は、なかなか無視できない言葉であるから、よくよく考えてみないといけないと、道元は言っている。

 そして、この言葉が間違っているというのは、古仏をそしることになるから、しっかりと考えなければならない問題だと言っている。

 

 それでは、どういうことかといえば、山河大地はすでにあるのであるが、それとはもう一つ、すでにある山河大地の上に、もう一つの山河大地が、人が生まれるとともに生まれるというのである。。

 そして人が悟るとき、また山河大地も悟るというのである。

 

 私も、おそらく、この問題は、簡単には理解できないであろうと思う。

 しかし、そうかわかった、ありがとう、という人もいるかもしれない。

 私が、よくわからないからと言って、他の人がわからないとは言えない。

 そう思って、この言葉を書いてみた。

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
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2023.4
  67歳の誕生日を迎えて

 

 4月23日に67歳の誕生日を迎えた。

 息子と、30年前から通っているスナックのママから、ラインとショートメールで「誕生日おめでとう」のメッセージが届いただけで、何の変化もない1日だった。

 誰でもそうなのかもしれないが、20代の自分と、心の心情のようなものは、あまり変わっていないなと思う。

 人間、いかに生きるか。いかに生きるのが良いのか。永遠なるもの、真実のひとかけらを求めて、生きてきたと思う。この思いが、体制の中、組織の中、人間関係の中で、突然、軋轢から爆発して、組織や人と決別してきたように思う。

 長いものにはまかれろ、といった、妥協がなかなかできない性格で、激しい態度や言葉で、相手を傷つけたことも多かったと思う。

 誰だって、自分を強く否定されたら、嫌だろう。

 

 中学生のころ、正義感に燃えて、突っ走しっていた時代がある。そんな僕に「正直に生きたいという気持ちはわかりますが、時に、その正直さが人を傷つけることがると思いませんか」と言われたことがある。

 僕の発言が、僕の知らないところで、人を傷つけていたのだ。

 

 このブログでも感謝の言葉をいただくこともあるが、ひどく、傷ついたという言葉をいただくこともある。

 なぜ書き続けるのかと言えば、誰かの心に、よりよく生きるヒントのようなものを、届けたいからだと思う。

 

 やはり言葉には、力がある。

 

 もうそろそろ、悟りのようなものを掴みたいと思うが、まだまだである。

 

 多くの人が、悩み苦しみ悲しみを乗り切る力がほしい。

 

 そうして笑顔と優しさをもって生きていきたい。

 

 

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
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2023.03  肯定する力

 

 我が師の教えは何だったのだろうかと考える。

 

 私なりに解釈しようと思う。

 

 先月も書いたと思うが、人間は本来全員救われており、いずれは仏にでもなろうかという存在である。

 そのことは、仏教の経典にも書かれているのだから、誰も否定はできないだろう。

 どんなえらそうなことを言っても成しても、長い宇宙の時間の流れの中では、チリのようなものだ。

 だから、何があろうが、どんな人間だろうが、放って置けばいいようなものだ。

 しかし、困るのは、現実問題として、人々が不安に怯え、欲望にからめられ、悲しみ苦しむ姿だ。

 もっとも、他人事ではなく、私も、無意識のうちに、悩み不安を感じることが多々ある。

 なぜ、悩み不安を感じたりするのか。

 それは、いつの間にか、現状を否定しているのですね。

 

 いくらお金があっても、才能に恵まれていても、健康でも、自分を、現実を、肯定できなければ苦しむ。

 貧乏でも、不器用でも、病気でも、自分を、現実を、肯定できれば幸せだ。

 

 右腕を、事故で切断して失くしても、まだ左腕があってよかったと思う。

 右腕を、失くして、今まで見えなかったものが見えるようになることもあろう。

 今日も一日生きている。ありがとう、ええなあ。と、思う。

 

 ややもすると、人は絶望します。不安にかられます。

 そんな否定的な思いの時に、逆に、ええなあ、と思う。

 少しくよくよしても、もう駄目だと思うくらいくよくよしても、最後は、肯定して、ええなあ、と思う。

 この生き方なら、どんな状況下でも、安心と幸福感は得られる。

 

 具体的に肯定なんて、そう簡単にはできないかもしれないが、肯定することが大切だ。

 やはり、想像力、思考力、たまたまのめぐりあわせ・・・。

 

 不運の中、不幸の中、明るく元気よく生きている人には、この肯定する力、思い、想像力があるのだと思う。

 そして、我が師は、この肯定する生き方を大切にされたのだと思う。

 

 「ええなあ、ええなあ、ほんまにええなあ」私も、しばらく、意識的にこんな生き方を実践していこう。

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
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2023.2
 すべての衆生は救われている

 

 今から40年ほど前、東京のホテルに宿泊したときに、仏教聖典を初めて読んだ。

 ホテルの一室に聖書と仏教聖典が並んで置かれていた。

 非常に興味深く読み、ホテルのショップで買い求め、友達にも紹介したものだ。

 仏がすべての衆生を救うことができないのなら、私は悟らないという誓願をたて、悟りを得て仏の誓願が成就したと書かれていた。

 この一文が妙に気になったものだ。

 それでは、すでにすべての衆生は救われているということではないのか。

 この疑問が、時々、脳裏をかすめる。

 

 浄土三部経を読んだとき、大無量寿経には阿弥陀如来の48の誓願というものが書かれており、第18番目の誓願が「阿弥陀如来の名前を呼ぶ者はすべて、阿弥陀如来の極楽浄土に生まれさせることができないなら、私(阿弥陀如来)は悟りを開かないという誓願をしたうえで、誓願が成就したことになっている。

 ようは「南無阿弥陀仏」と阿弥陀如来の名前を呼べば、極楽浄土に生まれるのだ。

 そんな、ことがあるのであろうか。

 もっとも、極楽浄土は美しく楽しいばかりで、何となく退屈そうで、極楽浄土に生まれなくてもいいと思っていたら、そういう人間は阿弥陀如来の救いから除くと書かれているから、おそれいったものだ。

 さすがに、私も、気弱になったときには、極楽浄土もいいかもしれないと思う。

 苦しみ悲しみがあってこそ、本当の幸せをかみしめることができるのではないかと思うが、苦しみ悲しみが続くと、極楽浄土のような安心の世界でしばし休憩したいと思う。

 

 般若心経を読むと、過去現在未来の諸仏がこの上ない悟りを開かれたのだから、安心しなさいと書かれている。

 立派な仏様達が、衆生を救うために、すでに悟りを開いていらっしゃるのだから、みんな救われているということが真実のようである。

 それが何とも、わからないから悩み苦しみ悲しむのであろう。

 いや、この悩み苦しみ悲しみが大切ということかもしれないな。

 

 最近紀野先生の「人生は捨てたもんじゃない」という本を読んでいたら、法華経の方便品には「すべての衆生が仏と等しく仏にならないなら悟りを開かないという誓願をたてて仏は悟りを得た」という内容のことが書かれているということがわかった。

 法華経はお釈迦様が説かれたお経だから、お釈迦様が、そのような誓願のもとに悟りを開かれたということであろうかと思う。

 ましてや、法華経には「常不軽菩薩品」というのがあって、常不軽菩薩はたえず「あなたは仏になられる方です。決して軽んじません」と、誰に向かっても礼拝したという。

 

 知れば知るほど、私たち皆が、すでに救われており、仏にもなり、極楽浄土にでも生まれることができる人間のようである。

 

 しかし、このことが、ピンとこない。困ったものである。そして、わからないまでも、そうらしいと思えるから、少しは安心かな・・・というところであろうか。

 

 皆様は、こんなことを少しは考えたことがおありであろうか・・・。

 

 やはり、このあたりは、人それぞれに思い考えたりしていくしかないのかもしれないが、少し、参考になったと思っていただければ幸いです。

 

 

ずいぶん後になって気づいたのだが、仏教聖典の編集のための戦後の第1回目の結集のリーダーの名前として巻末に紀野一義先生の名前が掲載されていた。

 

 紀野先生とは知らない間に、やはり深い因縁があったのですね。

 

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

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2023.1   お経の一文も知らなくてもよい

 

 「悟るためには、お経の一文も知らなくてもよい」ということが書かれていたことを、ふと思い出しました。

 紀野先生の著書にも書かれていたと思います。

 おそらくは道元禅師とか、悟りを開かれた立派な方々がおっしゃたのだと思います。

 道元禅師は、僧は貧乏であることが良いとおっしゃるし、知識教養、本を読むことなども必要ではないとおっしゃる。

 「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」自分よりも他人を本当に幸せにしたいと願う心が起きたなら、それは悟ったも同じだとおっしゃる。

 この心があるようでない。またないようである人もいるともおっしゃっている。

 また、ここのところが、なかなか見極めが難しいともおっしゃっている。

 一時的に、このような心を持つことができても、たちまち、いや、いつのまにか自分の幸せを中心に考えるようになってしまう。

 他人の幸せを心から願い、それが永続するということは、なかなか難しい。

 あの人は、仏様のような人だと、時々言われる人がいる。

 はたして、それは本物か偽物か、たまたまその時が、仏様のようであるのか。

 

 私は、江戸時代後期に生きた良寛というお坊様に強く心ひかれてきた。

 一生を小さな庵で乞食の僧として過ごし、藩主からお寺を寄進すると言われても拒み、子供らと夢中になって遊んだりしたお坊様。

 晩年は、髪も伸びたままのこともあったりで、坊主なのか神主なのか乞食なのかわからない風体だと自分のことを言っている。

 でも道元禅師の正法眼蔵のすばらしさ、お釈迦様の教えのすばらしさしみじみと感じながら、人々を済度することを願っている。

 良寛は、多くを語らなかったから、自分の生き方で、仏の教えを伝えたということだろうか。

 紀野先生も良寛のことが大好きで、良寛の歩いた道を自分の足で歩き、良寛を身体で感じていらしたのだと思う。

 ものぐさな私でさえ、良寛が過ごした五合庵、出雲崎、木村家と尋ね歩いたのはなぜだろう。

 良寛の墓を見た瞬間、お墓が光につつまれた時、あの妙な照れくささは何だったのだろうか。

 

 良寛が修業した岡山県玉島市の円通寺に、仙桂和尚というお坊様がいらした。

 良寛よりかなり年配であった仙桂和尚は、座禅することもなく、お経を読むこともなく、ただ畑で野菜作りをして、みんなに与えているだけの生活を送っていたお坊様です。

 その仙桂和尚のことが、晩年の良寛に思い出されて「なぜ自分は仙桂和尚のことを見てわからなかったのだろう。仙桂和尚こそが、真の道者だった」と言っています・・・。


今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
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2022.12
  年末を迎えて

 丸の内線の新高円寺の駅近くに住んでいるのだが、今、青梅街道沿いの銀杏並木が色づき落ち葉が舞う。

 何だかいつもより遅い季節の移ろいだと思うが、気温はマイナス1度、マイナス2度とそれなりに真冬の寒さだ。

 やけに青い青空と白い富士山を7階から眺めたり、夕陽も夕焼けも、むしょうに人恋しくなる。

 六十六歳の年末も、青春時代の年末も、あまり変わっていないと思うのだが、何か病気にでもなれば、いっきに老け込みそうだなと思う。

 一休禅師は、新年早々、シャレコウベ(髑髏)を杖に挿して「御用心!御用心!」と京都の街をねり歩いたそうだ。

 いずれは死ぬぞ、今日死ぬかもしれないぞ、明日死ぬかもしれないぞ。「今のままで、それで良いのか!」

 一休さんは、何を伝えたかったのだろうか。

 

 今のままでもいいですよ。

 ただ、欲望や煩悩に心を焼きつかされ。

 病や死に怯え苦しむ衆生。

 やはり、日々安心して、心ひろびろと生きるには、それなりに修業のようなものが必要だ。

 良き師にめぐり逢い、学び実践していかねならない。

 

 私は、紀野一義先生に巡り会えたことが、とてもありがたいことなのだと思う。

 しかし、いまだに、先生の教えが何だったのか説明することはできない。

 先生は、できる限りわかりやすく教えていらしたのだが、やはりそう簡単にはわからない。

 わからないまでも、それなりにわかり、それなりに幸せだ。

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
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2022.11.  ショウキョウという山について
 
私は、中国山地の山深い町の出身だ。
私がまだ小学生の昭和30年代までは、我が家の炭焼き小屋が、ショウキョウという山の中腹にあり、一人でもよく登ったものだ。
小学校の校歌はショウキョウサンカフクカゼニ、ニワノサクラガニオウトキ・・・だった。
ショウキョウといえば、山の名前で、ただショウキョウ、ショウキョウとだけ、意味など考えもせずに、山の名前を口にしていた。
近辺には羅漢山、恐羅漢山、深入山と、山の名前らしい名前のついた山が多くある。
ショウキョウは標高810メートルほどの、取るに足らない我が村にそびえる小さな山だ、と思っていた。
ところが、このショウキョウは正教という名称であることに数年前気づいて、どきりとさせられた。
なぜ、正教という名前の山になったのか、調べれば何らかのいわれがあるはずだ。
正教山という名前の山は、全国に一つしかない。
当然世界で一つしかない山の名前だ。
 
子供の時に読んだ童話に、ある男が金剛石を求めて、国中を歩きまわった。
しかし、金剛石を見つけることができないまま、年老いて故郷に帰ったところ、探し求めていた金剛石は故郷の谷川にあったのだ。
 
私自身も子供の頃、石の採集もしていたくらいだから、妙に、心に残る話しだった。
 
私も、何か大切なものを故郷で見落としているようで、故郷に帰らねばならぬのかもしれないという思いがよぎるのだ。
本当に、真剣に考えねばならないかもしれない。



今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
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2022.10  不安と安心(正師)
 
 人間生きていると、心配事や不安に心を痛めるものだ。
 歳をとれば、人生がわかって、不安などなくなればいいようなものだが、そうはいかない。
 歳とともに、よきせぬことで、やはり不安になることもあるようだ。
 私の場合には、いつ死んでもいいと思っているし、病気になったら、それはそれでしかたないと思っている。
 どれだけ貧乏になろうが、貧乏生活をそれなりに楽しめるのではないかとも思っている。
 ということで、自分の人生に不安はほとんどないのだが、子供が苦しんいる姿は、さすがに身にこたえる。
 しかし、子供も、いずれ何とかなるだろうとは思っているし、以前に比べれば、何とかやっているので、実際のところ、やはり、あまり気にしていない。
 老後も、一人で過ごすより、愛すべき人と静かに暮らせたらと思うが、相手側に、私ほどの覚悟がある女性は見当たらない。
 
 私は、はた目には、しっかりものの優しい男性だが、私の内面は、なかなか一筋縄ではいかない。
 しかし、誰しも、心のどこかで、何かが違っていると思っているのではないだろうか。
 多くの人が、自分を否定し、他人を否定し、かといって、どのように生きればよいかという、しっかりした人生観、倫理観、哲学観、宗教観をつかめずにいるのではないだろうか。
 
 本来、宗教は、人間の生き方を教え、心の不安を取り除いて安心を与える役割をはたしてきたのだと思う。
 最近の宗教は、そこのところが、きちんとできていない。
 それどころか、人の心の不安につけこんで、利用していることが多い。
 
 正師(せいし、正しい師)とは、その人に生きる喜びを与えてくれるという。
 正師が、増えなければならない。
 師のない仏法はないそうである。
 それだけ師は大切なのである。
 良き師が増えてくれることを願う。



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2022.09.29  あわただしい日々
 
 最近、新しい仕事にかかわり、忙しい日々を送っている。
 このブログもぎりぎり、月末をむかえた。
 いつこのブログをはじめたのかも、さだかではないが、毎月欠かさず掲載してきた。
 何とか、今月も書かねばと思う。
 どうせ書くなら、少しでも人のやくにたつようなことを書こうと思ってきた。
 
 そんなに難しいことではない、お釈迦様の言葉や、すぐれた仏教者の言葉を引用すれば、それだけで何か人様の役にたつというものである。
 お寺の門前には、このような教えの言葉がよく書かれていて、それなりに感心したり、参考になることも多い。
 できれば、ぐっと胸にひびきわたるような言葉や教えを伝えたいものだ。
 そのために、あれやこれやと、考えていると、この短いブログでも、なかなか筆がすすまない。
 書きたいことや、伝えたいことは山ほどあるのだが、今、何を伝え、今何を書くのかということになると、さっぱり書けなくなる。
 
 今月書こうとしていたのは、以前にも書いた記憶があるのだが、無難禅師の言葉である。
 解説などはぜずに、ただその言葉のみを掲載する。

    「生きながら、死人となりて、なりはてて、思いのままにするわざぞよき」




今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 自誓

       
一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
   一、真実をもとめてひとすじに生きん。
   一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。



2022.8.   肯定 肯定 絶対肯定 (肯定する力)
 
 最近は、スマホで世界中の人々の日常生活を写した動画を見ることが多い。
 国が違い、民族が違い、気候風土が大きく異なるなかで、人間の本質のようなものは、あまり違わないのだなと思う。
 東南アジアの両手のない若い女性が、両足を使って洋服を着替え歯磨きをし食事を作り、お化粧も上手で、着こなしも上手で、チャーミングで、その生活は両手がないことがわからなく程である。
 今日本でも、高校生のときに交通事故で両足を失った若い女性が、モデルとして活躍している。
 彼女は、交通事故を起こした加害者の人に、事故を起こしたことを気にして悩まないでほしいという。
 だから加害者が特定されてしまうようなことは避けてほしいと思っているようだ。
 両足を失ったことを、不幸だとは思っていないという。それはそれで良かったのだという。
 彼女の笑顔も素敵だ。
 
 寝たきりの青年がいる。パソコンを口にくわえた棒で操作する。そしてインターネットを使って商売を始めた。
 150円の利益が出たことが、非常な喜びだったという。
 
 私たちは、不幸せに思えること、様々な苦難に巡りあうと、ややもすると悲観し絶望し、苦しみに陥ってしまう。
 
 一時は、悩み苦しむ悲観し絶望するのも良い経験となるであろう。
 しかし、そこに長くとどまっては、大切な人生(いのち)が、もったいない。
 
 どのように人生を肯定していくのか。
 上記に書いた3人の生き方も、参考になるのではないだろうか。
 
 わが師は、人生は肯定、肯定、絶対肯定!!何があっても「ええなあ、ええなあ」と声を出して言うぐらいでないと
駄目だとおっしゃた。
 
 コップに水が半分入っている。その事実に対して人は「もう半分しかない」「まだ半分もある」「あの水はまずそうだ」「あの水はうまそうだ」「ひょとして貴重な魔法の水なのだろうか」と様々なことを思う。その思いを肯定的な思いにしなさいということだ。
 
この肯定する力があれば、世界中どこにいても、どんな苦難があっても、幸せ、喜びを感じることができるのだろう。
 
死んだらどうするんだ!!死後の世界も、そんなに悪いものではないと思う。ここは、是非とも体験したいものだ。
 
円覚寺の朝比奈宗源老師は、よく言われたそうである「我々は、仏心から生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に命をひきとる」
 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 自誓

   一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
  一、真実をもとめてひとすじに生きん。
  一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。









2022.07  あとを継がせる気はない
 
 紀野一義先生は、1922年(大正11年)8月9日のお生まれである。
 来月は、生誕100年ということになる。
 私のところにも、何かお祝いや集まりはあるのかと、ぽつりぽつりと問い合わせが入っている。
 8月9日は火曜日で、普段なら仕事で休めないのだが、代休で休めることになった。
 一人墓参りする予定だが、久しぶりに会いたい仲間もいる。
 ばったり会うというのも、良いかもしれないが、電話でもしてみようかとも思う。
 
 紀野先生を主幹とする真如会は、多いときは1000名以上だったのであろうと思うが、先生の晩年は300名程度だったと思う。
 先生は、自分の息がかかる程度、自分が面倒をみれる人数だけいれば良いというお考えだった。
 会を必要以上に大きくするお気持ちはなかった。
 自分が死ねば、真如会も、それで終わり。
 誰かに継がせる気はないとおっしゃっていた。
 
 この真如会の会員の中には、各宗派の管長クラスの方が何人かいらっしゃる。
 その方々の心の中に、在家の一般の会員の心の中に、一粒の種が芽生えるのでないだろうか。
 
 先生は、仏教を誰にでもわかるように、お話になった。
 また道元、親鸞、日蓮、良寛、明恵上人など、様々な仏教者の生きざまを教えてくださった。
 それと同じように現代に生きる、ごく普通の人間の生き方、生きざまを紹介してくださった。
 
 その教えの究極にあるものは何かと言えば、誰もうまく表現できないのではないかと思う。
 
 それでもあえていうならば、人の一生なんて何をなした、なさなかったといっても、たいした違いはないですよ。
 自分を否定しまっていることが多いでしょうが、人生は、肯定して生きなさい。
 そして、心ひろびろとさわやかに生きなさい。
 そして、真実を求めていきなさい。
 そして、おおぜいの人々の幸せを願う生き方をしなさい。
 そういうことを大切にして生き、心と心のふれあいを大切にしなさい。
 心にずしんと響くようなことを見たり、聞いたり、体験しなさい。
 思いきりよく生きなければ駄目ですよ。
 
 私たちは、仏のいのちから生まれ、やがては仏のいのちの中に帰っていく。
 
 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 自誓

   一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
   一、真実をもとめてひとすじに生きん。
   一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。








2022.6.  信心と人間いかに生きるかということについて
 
 紀野先生が八十八歳の米寿を迎えられるので新しくCDを制作しようということで、放送局に勤めているW君や数名で先生のお話しを録音したことがある。
 私は、その頃、毎月8日前後は先生の御伴をしていたのだから、いくらでも先生に質問をすることができたのだが、一対一でいるときに先生に質問したことは、あまり記憶にない。
 その日だけは、やはり聞いておきたいなと思い「人間いかに生きるのが良いのかといことについてお話しください」と、お願いした。
 先生は、
 「人間いかにいきるかという問題は、なかなか結論が出ない。だから人は、途中でやめてしまう。そんなことでは哲学の勉強はできないよね」
 とおっしゃった。確かに多くの人が、考えることをやめてしまう問題なのかもしれない。
 私も、いまだに考えているけど、結論は出ていない。
 また、この問題が哲学の問題だということは、仏教とは違うということかもしれない。
 
 私は、今も、哲学的、学問的、知識的に仏教をわかろうとしているのかもしれない。
 
 仏教は、衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)、すべての人々を幸せに導こうという願いを大切にしている。
 ありがたい教えだけれど、そこに命までかけようとは思わない。
 信心とはいうけれど、なかなか仏を信じることも難しい。
 仏の力で奇跡でも見せていただければ、多くの人が信じるだろうけれど、仏は神通力など特別な力を使うことを否定していらっしゃる。
 私たちは、自分の人生の中で、しみじみと仏の言葉や、優れた仏法者の言葉を聞き、そしてそれぞれの仏法の師にめぐりあい、仏を信じるようになるしかない。
 厳しい修業などをして悟りを開くことは、ほとんどの人ができない。
 ましてや、今現在では、お坊様を含め、悟ったものなどいないのかもしれないと思ったりもする。
 おそらく、悟りとは、虚空を感じ取り、生きながら死んで死にぬき、自分というものがなくなり、ただある、というような世界なのだろうという予測はできる。
 簡単に言えば、自分のことなど一切考えず人の幸せを心底願えるような世界だろう。
 いやいや、何にもない、無の境地。天地いっぱいにひろがる自由な世界。
 
 いくら表現しても、わからないものは表現しきれない。
 おまけに、悟っても、それは説明などできない世界だというから、どうしようもない。
 
 そういえば、私は先生に何気なく聞いたことはある。
 「先生には、悟りがありますか」
 先生は、
 「あるよ。それでなければ仏教について、みんなに語ったりはできないよ。」
 私は、さらに聞いた。
 「その悟りはどんなものなのですか」
 先生は、
 「まあ、紀野教(キノキョウ)だな」
 
たぶん池上本門寺に向かう車の中で、渋滞中に質問したのだと思う。
先生は、さりげなくジョークを交えられるから、ひょっとすると、
 「昨日(キノウ)は今日(キョウ)だな}
という、言葉にひっかけられたのかも知れない。
 
先生は、仏教は一元論だとおっしゃる。
神も仏も私も一緒。
過去も現在も未来も一緒。
というような世界を、キノキョウ(昨日は今日)と、私をからかっておっしゃたのかも知れない。
 
 
まあ、おそらく考えても考えても哲学的、学問的、知識的なものでは悟りは得ることができない。
 
 先生は、町中の小さなお地蔵様でも、さっと手をあわせて礼拝される。
 谷中の全生庵で法話の席に着く前に、本堂のお釈迦様の前を通るときには、誰も見ていないけれど、両手を合わせて深く礼拝される。
 先生を見ていると、仏様はいらっしゃるのだなと思わされてしまう。
 しかし、私には深い信心はない。
 でも先生にお会いして、仏様はいらっしゃると感じることができただけでも幸せだ。
 
 仏に手を合わせたことがないような学者が、仏教を語るのが、今の世の中だ。
 仏教は学問ではないですよ。
 
 仏を信じ、敬っていらっしゃる方も多いことと思います。
 そういう思いを大切にしてください。
 
 
「いかに生きるか」。
先生はおっしゃた。
「自分がいいと思えば、それでいいじゃないか。人から良くおもわれようなんて、そんなことじゃ駄目だ」
はい、もっと自分らしく、生きます。





今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 自誓

    
一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
   一、真実をもとめてひとすじに生きん。
   一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。








2022.5   思考は現実化する
 
 「思考は現実化する」という言葉を聞いた方は多いと思います。
 私も若い頃、ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」という本を読みました。
 ジェームズ・アレンの「原因と結果の法則」も、思いが人生を創るといっています。
 「念ずれば花ひらく」という仏教詩人である坂村真民さんの詩も有名です。
 「一念岩をも通す」「切に思うことは叶う」と、この思いというか心が大切であることは、間違いないようです。
 
 世界的数学者であり教育者であった岡潔先生は「この世界には、まず心がある。この心がこの世界を創り、ながめて楽しんでいる。
 それと同じ心が人間にある。人間もまた世界を創り、ながめて楽しんでいる・・・・」
 後半部分は、私の勝手な解釈であるかも知れませんが、このようなことをおっしゃった。
 
 残念ながら、一人一人の人間が、この世を楽しんでいるようには思えません。
 あまり楽しめないのは、私の心がよくないのか、創造力がないからなのか。
 
 いずれにせよ、心というものが、現実社会に大きく影響を与えているのです。
 この心を何とかしないことには、美しく平和な世界は築けないと思います。
 
 本当の幸せは、政治では築けない。
 
 私が、求めているのは、この心ということなのかもしれない。
 
 私は、我が師がおっしゃった「黄金の70代」を目指しています。
 
 人生というものが、まだまだわからない。
 
 今、66歳。
 
 いつ死んでもおかしくない年頃だが、命ある限りは、人々の本当の幸せについて、しっかりと語れる人間になりたい。


今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
   一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
     一、真実をもとめてひとすじに生きん。
     一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。

























  2022.4  プーチンのストレス(自業自得)
 
 ウクライの小学校の教科書ではを松尾芭蕉を習い、高校の教科書では川端康成の千羽鶴を習うのだそうだ。
 日本でも私の中学生の時にはウクライナ出身のガルシンの「信号」という短編を習った。
 ウクライナの人には親日家が多いという。何か相通ずるものがあるのだろうか。
 
 プーチンは世界の大国としての強いロシアを築いたスターリンを尊敬しているようである。
 スターリンは、やはりウクライナを迫害している。ライバルや敵対するものは処刑し毒殺している。
 同じくプーチンは、敵対するものを虐殺し毒殺している。
 まるで罪の意識はないようであるが、スターリンは鉄に囲まれた寝室を複数作り、どの部屋で就寝するかは誰にも教えなかったようである。
 いつか自分が殺されるかもしれないという恐怖感は十分あったようである。
 脳溢血で倒れたスターリンは、鉄の部屋で倒れ、発見が遅れて死にいたったという。
 もっとも暗殺(毒殺)されたのではないかとも言われてもいるのだが・・・。
 
 プーチンも、側近との会議でも人をそばには寄せ付けない。
 会議の席でプーチン一人が、遠く離れた姿は異様である。
 当然寝室も、人を寄せ付けない。
 そのことが幸か不幸か。
 いざという時に、誰も助けてくれない。
 
 プーチンには二人の娘がいるそうだ。
 プーチンは、この娘を溺愛しているとのこと。
 もしプーチンの娘が、まっとうならプーチンを批判するであろう。
 
 そして今、世界の多くの人々がプーチンを批判している。
 プーチンには、この世界の声が届かないのだろうか。
 
 いくら言い訳をしても駄目である。
 プーチンは、今、悪人である。
 
 欲にまみれ、驚くほどの執着心を持ったプーチンは、多くのものを手に入れただろう。
 しかし、その欲と執着が苦しみと不安の原因であることを知らないのであろう。
 
 今、プーチンは最大の苦しみを味わっている。
 これから益々、その苦しみは増大する。
 やがては病み、死んでいくだろう。
 病まなくても毒殺されるか、銃殺されるだろう。
 
 お釈迦様の弟子に一人、王様がいた。
 出家して、本当に幸せになったという。
 誰もが信じなかったが、王様は「いつ他国に侵略されるか」「いつ殺されるか」といった心配がなくなって、本当に幸せだという。
 
 プーチンも苦しいだろうから、できることなら、よくよく反省して、停戦しほしい。




今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
   一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
     一、真実をもとめてひとすじに生きん。
     一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。








2022.3.22  お釈迦様と戦争
 
 今の、ロシアによる武力侵略は戦争です。
 ロシアというより、プーチンが一番悪い。
 諸悪の根源です。
 プーチンは国内に1000億円を超える豪邸をいくつも築き、私利私欲で動いています。
 ロシアの皇帝、世界の皇帝にでもなろうとしているのでしょうか。
 今までも、敵対する自国のロシア国民を毒殺し射殺してきた、犯罪者です。
 大統領なら人殺しも許されると思っているのでしょうか。
 遂には、武力をもって他国を侵略し、一般人も平気で殺していきます。
 歴史に残るであろう、犯罪者です。
 ただ、その歴史が、今後も続かないかもしれないほど、世界は危機的状態です。
 世界中が、プーチン批判をしないと、プーチンやその側近は考えを変えないでしょう。
 
 プーチンよ、世界はおまえを見ているぞ。
 世界中の人が、プーチンの嘘に気づき、プーチンが殺人者であると思い始めているぞ。
 この思いが、プーチンに届け。
 プーチンの側近に届け。
 
 
 ところで、仏教は、戦争に対してどのような考えなのだろうかと、考えてみました。
 お釈迦様は釈迦族の王子でした。
 釈迦族はお釈迦様の父である浄飯王(じょうぼんおう)が善政を行っていたので、国民は幸せに暮らしていました。
 お釈迦様が出家されたあと、釈迦族の国は近隣の国から攻め込まれました。
 一度は、お釈迦様が、敵国の軍隊の前に立ちはだかり、軍隊を撤退させました。
 二度めは、神通力をもって、敵国の侵入を防ぎました。
 しかし三度目は、お釈迦様は何もなさらず、釈迦族の国は滅亡したのです。
 釈迦族は、滅亡しても多くの親族は出家してお釈迦様の弟子となっています。
 十大弟子の一人は従妹のアーナンダ、もう一人は息子のラーフラです。
 
 年老いた十大弟子の一人が、隣国に仏教の布教に行こうとされた時、お釈迦様はおとめになりました。
 「おまえの行こうとしている隣国の人々は、気の荒い人が多く、おまえをなじり暴力で危害を加えるぞ」
 「はい、耐え忍ことができます」
 「おまえの命がなくなるかもしれないぞ」
 「はい、耐え忍び喜んで死んでいきます」
 「それなら行きなさい」
 
 これで仏教の基本は、非暴力なのだとわかります。
 
 仏教徒であるならば、生きとし生けるものを大切にしなければなりません。
 山や川や花だって、大いに語っているというのが仏教です。
 ただ私たちには、その声が聞こえないだけ。
 植物にもテレパシーのようなものがあるという実験をした人がいましたが、世界中の思いが、プーチンに届けばいい。
 
 プーチンの人殺し!
 いいかげんにしろよ!
 
 


今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
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    一、真実をもとめてひとすじに生きん。
   一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。





2022.2 常不軽菩薩(皆、いずれは仏になる)
 
 法華経の中に常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)という菩薩の話しが出てくる。
 この常不軽菩薩は、人に出会うと「あなたは、仏になる方です。決して、あなたのことを軽んじません」と礼拝した。
 いきなりこんなことを言われて、両手を合わせてお辞儀されたら、なんのことやらさっぱりわからない。
 言われて礼拝された方は、ただぽかんとするか、気味悪がって立ち去るか、短気で気性のはげしい人間は殴りかかったり、石を投げつけたりしたらしい。
 そんな時、常不軽菩薩は、いったん遠ざかり、また、遠くから「あなたは、仏になる方です。決して、あなたのことを軽んじません」とまた礼拝した。
 
 いいかげんにしてほしいと思う。
 何を根拠に、そんなことを言うのだろう。
 
 でも、「あなたは、仏になる方です・・・・」
 
 妙に、この言葉が印象に残る。
 わざわざ法華経の中の大事な一説として出てくるのだから、深い意味合いや教えがあるのだろう。
 
 お釈迦様の願いも、様々な如来の願いも衆生を救うことである。
 
 いつ仏になるかは、個人差があって、百万回位は生まれ変わらなければならない人もいるだろうが、いずれは仏になるということであろうかと思う。
 
 人間として生きていくことは、様々な苦悩がある。
 
 人間として生きながら、この苦悩が苦悩ではなくなるような生き方が仏になるための道だろうと思う。
 
 そのためには、自分というものに執着せずに、人々の幸せを心から願えるような人になることが大切なのだろうと思うのだが・・・・。
 
 
 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真実をもとめてひとすじに生きん。
   一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。



2022.1 自分自身を知るということ
 
良寛の漢詩の中に、「おのれの心を知れ」ということばが出てくる。
 
 
 たとい万巻の書物を読破したところで、真の言葉一つわきまえていることに劣る
 その真の言葉とはなにか、ありのままにおのれの心を知れということだ。
 
 
 
 デルフォイのアポロンの宮殿の奥に掲げられている、秘密の格言は、「汝自身を知れ」だ。
 
明治時代の浄土真宗の僧であり哲学者であり教育者であった清沢満之は、浄土三部経の中にある「自当知」(みずからを知れ)という言葉に出会い、以後、自分自身を知ることに一生をかけた人である。
その弟子の暁烏敏も自当知、(自分自身を知ること)(自分の心を知ること)に全力を尽くした人である。
 
私も最近、自分の心を見つめることが多くなった。
いかに自分をいつわっていることが多いことか。
いかに臆病者になっていることが多いことか。
もっと、勇気をもって、美しく生きることができないものか。
 
やはり一人、静かに自分のことを思うと、つくづく、自分が自分自身を見失い、嘘にまみれた、臆病な生き方をしてしまっていることが見えてきて、最近は、一生懸命、自分を励ましています。
何を恐れる、勇気をもって、やりたいことはやろう。
 
でも一歩間違えると、狂気の世界。
 
やはり大切なのは、大勢の人々の幸せを願う心です。
そのうえで、自分に正直に勇気をもって生きていきたい。
 
自分の本当の心をじっくり見つめたい。
そして、この心を美しい心に鍛えたい。
 
一人静かに、自分の心をながめて見ることは、大切なことのようです。
 
 
 
 
 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真実をもとめてひとすじに生きん。
      一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。

 





心が不安や苦しみを作る  2021.12.23




 
明日はクリスマスイブ。
幼いころ、田舎の実家には丸くて細い煙突しかなかったので、あの煙突にどうやって入るのだろうかと心配したこともあります。
そして、トナカイに引かれてサンタクロースが夜空を駆け巡っている姿がありありと見えたものです。
そうした美しい世界が、少しずつ壊れて、人間世界のドロドロとした恐怖の世界を創造して、不安におののいている人も多いことでしょう。
「火の車、作る大工はなけれども、己が作りて、己が乗りゆく」
人間は色んな心配をしますが、少しものの見方をかえれば、まるで違った世界が開けるものです。
 
わが師紀野一義先生は、著名な仏教学者でもあり仏教伝道者でもありましたが、身長183cm。広島の旧制中学時代は不良でもあったようです。命が惜しいような奴は喧嘩する資格がないなどとおっしゃったこともありますから相当なものです。
戦争中も戦後も命しらずの蛮勇がいくつもあります。
そんな先生も50才を過ぎて、ようやく二人のお子様がおできになった。
先生が60才近くになると、友人達が病気でどんどん亡くなっていく。
中には、戦争中からの友人で先生以上に屈強な男が、癌であっというまに死んでいく。
さすがに先生も年末年始にかけて胃の調子が悪くなり、おかゆしか食べれなくなり、ひょとして癌かもしれないと思い、年があけてすぐにかかりつけの医者に電話をしたそうです。
医者も普段屈強な先生を知っているものですから、びっくりして、すぐにレントゲンをとりますから来てくださいと言ったそうです。
先生の周りの友達が癌で死んでいくものですから、胃癌かもしれない。死ぬかもしれないとの思いが起きたのですね。
残される紀野先生の妻や子供、その他、先生が面倒を見ている人々のことを思うと無意識のうちに不安に取りつかれていたようです。
大学での午前中の講義が終わり、かかりつけの病院に行く車を運転しながら、あれやこれや考えたそうですが、ふと、考えが変わって「女房も修羅場をくぐってきた女だから、私が死んでも何とか生きていくだろう。子供も親がいなくても育っている子供が大勢いるんだから大丈夫だろう・・・。」といううふうに思い出したら、急に胃の痛みが取れてきたのだそうです。
その病院に着く、10分程度の間のできごとです。
病院に着くと、かかりつけの先生が飛び出して来たのですが、あまりにも紀野先生が元気そうなので
「紀野先生、どこが悪いのですか」と聞いたそうです。
「どこも悪くない、さっきなおった」
と言ったので、大笑いになったそうです。
念のため、レントゲンもとり診察もしたそうですが、まったく異常がなかったそうです。
 
紀野先生のような、強くて立派な方でも、ふとしたことで不安になることはあるようです。
私も、しょっちゅう不安や寂しさを感じます。
でも見ていると、私以上に不安や苦しみを抱えている人が多い。
 
一番の原因は執着することにあると思います。
あるお寺の額に「水の流れのように」と書いてありました。
キリスト教では「すべてを受け入れなさい」とも言います。
 
心の持ち方一つで、地獄にもなり極楽にもなるのではないでしょうか。
仏教は、この心のもちかたを確かに伝えています。




今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真実をもとめてひとすじに生きん。
   一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。






月食と龐居士と霊照   2021.11.19

 龐居士(ほうこじ)は、大金持ちでありながら災いの元もとだといって金銀財宝を海中に捨て去り、在家のまま禅門に入った人である。

龐居士は死期を悟ったのか、月食の夜に死ぬことを決めていた。

その月食の夜を迎え、娘の霊照(りんしょう)が「お父さん、月食がはじまったよ」と龐居士に伝えたので、龐居士は家の外に出た。娘の霊照は、それを見届けると、家の中に入り、あっという間に、首を吊って死んでしまったという。

龐居士は、その日死ぬのをやめて、娘の死を一週間弔ったのちに死んだという。

龐居士と霊照については、何度か、このブログにも書いたが、妙な縁を感じてしまう。

それというのも、二日前、私は、かなり酒に酔っぱらって、電車を乗り違え、いつの間にか最終電車の最終駅で一人ふらふらと階段を上り、ついには転倒して、ばったりと階段に這いつくばってしまった。

誰もいない人気のない階段で、一人起き上がり、またふらりふらりとタクシーを探して歩いたのだった。

酒に酔って、転倒したのは、22才の時以来である。

今、もう一度、青春のあの日々を思いだす。

そして、もう一つ思い出すのが、朝比奈宗源老師の臨済録の一遍である。

 

龐居士が転んだ。

娘の霊照も自ら転んだ。

そして龐居士の顔を見てにっこり笑った。

 

そして、月食の日である、本日を迎えた。

午後5時過ぎから午後8時前まで月食が見れそうだ。

久しぶりに、月食を眺めてみようかと思う。

 
 私は、一人転び、一人起き上がった。

この大都会にいながら、誰一人いない。

でも、いつか、きっと、私と、また一緒に歩き始める人も現れることもあるさ、と思う。

 
 
今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。
   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真実をもとめてひとすじに生きん。
     一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。
 









2021.10   黄金の70代に向かって
 
 あと5年で70代に突入する。この70代を自分の人生の集大成として光輝くものにしたいと思っている。
 たまたまお会いした70代の人に、それは、おそらくこの人は昔、小説など書いていた人なのだなと感じる人だったが、70代80代90代の人間の生活、心のありようなど誰か小説を書かないだろうかと話したことがある。
 
 作家の老後の作品では書けない、庶民として生きた人間の老後とはどんなものなのか。
 普通の人間が、老後をどう生きるのか、どう生きればいいのか。
 普通の人間の老後の生活に、美しさや、ロマンはあるのか。
 文学の世界も、もう一度、人間いかに生きるかということを追究しなければならない。
 かつての文学は、ちゃんと、そういう作品があった。
 
 そのためにも、老後、老人とはいかなるものなのか、たんたんと一遍の小説を書き上げてほしい。
 
 そんな話しをしていたら、
「昨日のことが思い出せなくてね」
「この前、ふと昔行った公園に立ち寄ったら、その2キロよぶんに歩いたことで、足がガタガタ。帰りの電車の中でダウンしちゃった」
「肺に影があって、今度精密検査ですよ」
やれやれ、現実はこんなものです。
しかし、高齢者が、頑張らなくて、誰が頑張りますか。
高齢者でなければ、わからないことや、高齢者でなければできないことも、多くあります。
 
さあ、黄金の老後に向かってがんばりましょう。
 
 良寛さんは、73才でなくなるまで自分の詩を残していらっしゃる。
 69才で29才の貞心尼に会い、師と弟子というだけではない恋心のような歌も残していらっしゃる。
 
 我が師、紀野一義先生は、「黄金の70代」ということで、確かに大活躍された。
 おそらく先生の悟りのような世界は、この70代で語りつくされたのだと思う。
 私たち庶民に、仏法というものを、できる限りわかりやすく伝えようと務められた。
 おかげで私は、何十年勉強してもわからかったであろうことまで、教えていただいた。
 今なお、益々、先生の著書には驚き、日々発見することが多い。
 真実で書かれた書物は、そのようなものだと思う。
 残念ながら、先生の悟りの世界は私にはまだまだわからない。
 ただ先生は「肯定」することを強調された。
 「肯定、肯定、絶対肯定。何があっても、アア、ええなあ。アア、ええなあと言わなければ駄目だ」とおっしゃたことがある。
 どんなに立派に生きた、何々を成したといっても、所詮、人間のやったことはたいしたことなない。違いはない。
 迷っても悟っても、何をしようが何をすまいが、仏のいのちの中で生きているだけ。
 死ぬということは、仏のいのちの中に帰っていくということ。
 私たちは、仏のいのちから生まれ、仏のいのちに帰っていく。
 
 それでは、どう生きるのがよいのか。
 
 真実を求めて生きていきなさい。
 仏をうやまいなさい。
 おおぜいの人々の幸せを願って生きなさい。
 美しく生きなさい。
 
先生はそうおっしゃっていたのだと思う。



今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真実をもとめてひとすじに生きん。
     一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。









2021.9  我が家の観音様
 
 2011年の夏、新宿区四谷にある「宇宙村」という、主に隕石を販売している骨董屋でピンクの大理石でできた仏像を購入した。
 この骨董屋の店主は、少年時代にソ連のガガーリン大佐とも会ったことがあるという、もとは宇宙少年である。
 マスコミに登場することもよくあるので、ご存じの方もあるかもしれない。
 大阪の美術館にあったという、その仏像が妙に気に入って、値段を聞くと、「現金〇万円なら、売ってあげるよ」とのことであった。
 たまたま財布にその現金があって、数日のうちには、我が家においでいただくことになった。
 それからは、不思議と一人身の寂しさのようなものがなくなり、ひょっとすると、この仏像に守られているのかもしれないと思う。
 
 なんの仏像なのか、はっきりしないが、右手に葉っぱのようなものを握っていらっしゃるので拈華微笑のお釈迦様かもしれないと思ってみたりもするのだが、お顔があまりにもお若いので、観音様ということにしている。
 それも遊戯三昧の観音様で、この世を自由自在に楽しんでいらっしゃる観音様だ。
 私にとっては、理想的な「南無観世音菩薩」である。
 お釈迦様のように悟りを開いたり、禁欲的な生活は、私にはできない。
 衆生である皆様にもできない。
 
 できるのは、ただ人間として悩み苦しみ喜び感動することだ。
 
 どんな苦しみも悩みも永遠に続くことはない。
 いずれは忘れさるか、次の喜びにかき消されてしまう。
 どんな苦しみも。心の持ち方一つで、なんとかなる。
 
 お釈迦様がしつこく「執着するな」とおっしゃっている。
 いやなこともいいこともきれいさっぱり忘れることです。
 
 いいことだけ覚えておこうというのは駄目ですね。
 
 最近の私を見ていると、関心するほど、きれいさっぱり忘れて、昨日、会って親しく話した人の顔を、翌日にはきれいさっぱり忘れている。
 相手にすれば、不愉快だろうが、お許し願いたい。
 
 ひょっとすると認知症になっただけかもしれないが、そうでもないように思う。
 小学校3年生のころ、ずいぶんと精神的に追い詰められ、自殺について考えたことがある。
 この頃は、夢中で本を読んだ。
 童話や伝記、その他の児童文学の中では、苦しみ悲しみの中で生き、立派に成長できる姿が鮮明に描かれている。
 あの頃も、もの忘れがひどくて、忘れ物が多くて、先生にずいぶん叱られたものだ。
 先生にお願いして、忘れものをしないように手にマジックで書いてくださいと、お願いしたことがあるほどだ。
 お天気やさんとも言われたこともある。
 しょんぼりしていたかと思えば、いつのまにやらニコニコ。
 自分なりに忘れ去ることを身に着けたのでしょうね。
 
 親子の関係ほど、喜びであり苦しみでもある関係はないように思います。
 この恩愛についても、お釈迦様は断ち切りなさいとおっしゃっています。
 本来、親子、夫婦、肉親の情も断ち切っていいものなのです。
 
 おそらく断ち切ることはできないでしょうが、断ち切るべきものだということは知っておく必要があるのではないでしょうか。
 
 ところで我が家の観音様は、玄関に鎮座されており、この10年、毎日、お会いしているのだが、最近は手を合わせて拝むこともなく、その存在すらも、忘れてしまうような有様だ。
 こんな私でも、おそらくは、暖かく見守っていてくださるのだと思う。
 ちょっと、恥ずかしいようなこともあるが、ありがたいことではある。
 
 私に限らず、皆、誰しも、仏様に見守られているのだと思う。
 
 諸仏は、どこにでもいらっしゃる
 野でも山でも、台所でも座敷でも。
 だからそこに塔をたてよという。
 その場所は、かつて諸仏が修業された場所であり、今も修業なさっている場所なのだ。
 
 私も仏を感じているのかいないのか、どうしようもない寂しさはなくなった。
 
 生きている限り、喜びも悲しみ、それなりにいいものだ。



kannon.gif (500×375) (smile-stone.com)   我が家の観音様

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真実をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。










2021.8  迷っても悟っても仏のいのちの中
 
 
7月12日に紀野先生の墓参りに行った。
紀野先生の奥様、安禅寺の奥様、阿多さんと私の4名である。
去年まで一緒だった杉本さんは、脊椎狭窄症の術後がよくなく、金沢の実家で療養中だ。
私も、網膜剥離の手術がうまくいかなくて、3度入退院を繰り返した。
何とか、眼鏡もかけず普通に仕事もこなしているが、何となく失明するかもしれないとも思った。
それでも、それなりに命あるかぎり、生きていくしかないと思っていた。
はた目には、元気にやっているが、いろいろと思いふさぎこみたくなるようなことがある。
4人で食事しながら杉本さんに電話したが、電話がつながらない。
紀野先生の奥様が「濱田さんが亡くなったのをご存じ?」と、私に耳打ちされた。
 
濱田さんには、紀野先生の七回忌以来、会っていない。
紀野先生と二人雑談していたとき「男は濱田みたい男が一番いい」と、私におっしゃってニコリとされた。
それ以来、私は、濱田さんとは親しくおつきあいしたいと思っていたのだが・・・。
先生が泣くなられてからは、会う機会は、ほとんどなくなった。
どうやら濱田さんは、脳梗塞で今年の三月に亡くなったということが、Facebookの書き込みでわかった。
 
しばらくすると、警察官時代仲の良かった佐藤さんが心筋梗塞で倒れたという知らせがLineで入った。
奇跡的に回復したとの追伸があったが、その後、なんの知らせもない。
 
8月に入ると、実家の近所に住む姉が、私の幼馴染の長男が癌で亡くなっったと伝えてきた。
亡くなったのは、ずいぶん前のことで、そういえば今年の3月下旬にFacebookで「息子の形見の自転車を磨いた。春になったら、この自転車でサイクリングに行こう」と書いていたのだが、息子が遠方に住んでいるのかと思っていた。
今、思えば、雪が降りしきる故郷の写真を掲載していたが、寂しくてつらくてしようがなかったのではと思うと、私の心も痛い。
 
何だか、私の心もふさいでしまいそうだ。
 
私自身は、死ぬときは死ぬのがいい。
命ある限り、それなりに生きていく、と、思っている。
 
小学5年生のときに仲のよかった女の子が脳腫瘍で亡くなったときには、私の様々な不幸も含めて、仏壇の中の阿弥陀如来の仏像の頭を叩いてみた。
 
本当に、神や仏様を恨みたくもなる。
 
幼くして若くして死んでいくものは、仏様からの使い、如来使だと、紀野先生がおっしゃたことがある。
何となく納得したものだ。
 
仏教については、人並以上に勉強もし、いまだにああでもないこうでもないと思っているが、仏様がちゃんと、この世にもあの世にもいらっしゃって、ちゃんと見守っていてくださるのではないかと思う。
仏の心は、愛とか慈悲に満ち溢れているから、死んでも大丈夫だと思う。
しかし、それが本当にそうだとわかってしまうと、みんなこんな世の中にはいたくもなくなるだろうから、死は恐れ悲しんだ方がよろしいのかもしれない。
 
先生が、私が持参していた「良寛詩集」に「迷っても悟っても仏のいのちのなか  死んだらまた会おうな」と書いてくださったことがある。
 
人間何をなそうがなすまいが、そこに違いはない。仏を信じ、仏様におまかせする生き方が大切なのではないかと思う。
おそらく仏というものを、しっかりと感じとれるようになったら、大らかな安心、自由な心、生きる喜びがわいてくるのではないだろうか。
 
 
 
 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。

    一、真実をもとめてひとすじに生きん。
      一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。











2021.7   生老病死について(生まれる苦しみ) 

人間の大きな苦しみの最大の四つの苦しみが「生老病死」です。
生まれる苦しみ。
老いる苦しみ。
病気になる苦しみ。
死ぬ苦しみ。
 
老病死の三つは、誰にでもわかります。
しかし、生まれる苦しみは、ピンときませんね。
 
生む苦しみは、女性ならよくわかるでしょう。
生まれる苦しみは、記憶のない赤ちゃんだったから、誰も覚えていないということでしょうか。
 
 
それは、おそらくは、生まれる前は、ほとんどの人は、極楽浄土で生活をしており、その幸せな世界から「人間世界に生まれる」ことになり、その人間世界に生まれるということが非情な苦しみと恐怖だということではないかと思うのです。
もっとも人間世界とはいっても、人間に生まれ変わるのか、牛や馬、魚や虫なのか、草花なのかは定かではありません。
まあ、人間に生まれ変わったということは、ありがたいことなのかもしれません。
逆に、どうしようもないから、人間として苦しみ、少しは悟れということかもしれません。
 
仏教では、輪廻転生することを、今生でお終いにすることを強くすすめます。
生まれ変わることのないようにしなさいということです。
それは、今生で悟りのようなものを得ないといけないということでもあるようです。
 
死ねば、皆、極楽浄土で末永く幸せいっぱいというわけにはいかないのではないでしょうか。
いずれの生においてか、きちんと生きて、生きながら仏にならなければならないのかもしれません。
 
娑婆(しゃば)即(そく)寂光土(極楽浄土)といいます。
 
悟れば、この世は、そのまま、極楽浄土になるようです。
 
人間誰にも仏性がある、人間は本来、仏であるといいます。
 
心の奥の奥に、この仏性があり、こんな話しもどこか気になるのでは「ないでしょうか。




今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真実をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。

 




2021.6     「あかかやあかかや月」


あかあかやあかあかあかやあかあかや あかあかあかやあかあかや月・・・・これは、明恵上人の和歌です。あかあかというのは、明るいという意味で、明るい明るい明るい明るい明るい月、という解釈になるようです。確かに、夜が、真昼のような月明かりの夜があるものです。
何度か、そんな夜を過ごしたようにも思います。
最初、このあかあかを、赤い赤いという意味だと思い、真っ赤な夕焼けの中に浮かぶ月を思い浮かべたものでした。それはそれで美しい情景です。
詩の正確な解釈など、本当はどうでもいいのではないでしょうか。
その作品に、何かを触発されたり、感動を覚えれば、十分だと思います。
 
この和歌は、非常にシンプル単純明解で、時代の古さなどぜんぜん感じないです。
鎌倉時代のお坊様の和歌です。
 
明恵上人は、お釈迦様が大好きで、この身の一部をお釈迦様に差し上げたいと、片耳を切り落としました。
和歌山の海の近くの山中に住んでいたときには、山から眺める、島に恋をし、島に恋文を送ったことがあります。
島は、お釈迦様のお生まれになった天竺(インド)を流れる水が、巡り巡って、その島にも流れついています。銀色に輝く海、真っ赤な夕陽に染まる海、その海に浮かぶ島。
あまりの恋しさに、舟を出して、島に渡り、桜の木の下で楽しいひと時も過ごされたこともありました。
島で拾った、小石を終生大切にされ「もし私が死んで、誰もお前をかえりみないならば、飛んであの島に帰るがいいだろう」というような和歌も残しています。
 
松の木の上で座禅をしていらっしゃる絵が残されて、妙に、その絵が印象的です。
 
人間に恋しても、その恋はひと時のものです。
 
仏様や観音菩薩のような方に恋すれば、その恋は永遠に続くでしょう。
 
とはいえ、人間は、人間に恋するものです。
 
それが、たとえ、永遠ではなく、苦しみを伴うものであるにせよ、人は人に恋をします。
 
人を恋するとき、別れを恐れてはいけません。
 
勇気と忍耐をもって愛します。
 
そして別れるときは、水のごとくさらさらと、すべてを洗い流していきます。
 
いつの時代も愛すること恋することは、すならしいと思います。
 
ただし、執着するなよ、ということでしょうか。





今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

 

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
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2021.5  スマイル仏壇の営業再開のお知らせ
 
インターネット販売の責任者である私、野田が網膜剥離の再手術のため、一時休業していましたが、5/8(土)から、通常営業いたします。
休業のお知らせをしたところ、10名ほどの方から、励ましのメールをいただき、ありがとうございました。
やはり嬉しく拝読させていただきました。
 
思えば、この世とおさらばしてもいいかなと、記念に20才で詩集を自費出版しましたが、その詩集を読みかえしても「ゆるぎない真実を求めている」とか「世界中の人々を幸せにしたい」とか書いています。
 4月23日に65才の誕生日を迎えましたが、この入院中にあらためて、その思いについて考えてみました。
 
釈迦如来の悟りの目的は、何であったのか。意外とはっきりしていませんが、すべての人々を救うということであったと思います。
それができないならば、悟らないという誓願のもと、悟りを開かれたのだから、その時点で、人類は、いや、草木も含めすべてが救われているのではないか。
これは、20代30代のころの、私の漠然とした思いです。
 
わかりやすいのは、観無量寿経に書かれている阿弥陀如来の誓願で「私の名前を呼ぶものは、すべて救ってあげる」という。
ただし、親を殺すようなものは、お坊様を殺すようなものは除く・・・と、ただし書きはある。
 
法華経等に書かれている釈迦如来の誓願の場合には、このただし書きはないのではないかと思う。
 
釈迦如来は、そんなこと言っていないという方もいるだろうと思うが、般若心経に書かれているように過去現在未来の悟りを開かれた如来の中には、間違いなく、生きとし生きるすべてのものを救いたいという誓願をたてた上でで悟りを開かれた如来(仏)は、必ずいらっしゃると思う。
 
すでに私たちは救われているのだが、そのことがわからない。ということらしいのである。
 
つい最近まで生きていらしたインドの聖者、ニサルガッタ・マハラジは、世界平和を訴える若者の質問にこたえて「君は一人でも、本当に幸せにしたことがあるであろうか」と言っている。
 
確かに、私たちは一人の人間でも、自分の力だけでは幸せにすることはできない。
 
それでも、おおぜいの人々の幸せを願うことは大切だ。
 
人生を美しく生きる。愛にあふれた人生を生きる。優しさ、慈しみあふれた人生を生きる。
 
誰か、本気で人を愛しているうちは、人生はバラ色だ。
 
子供みたいなことを、言っているようだが、愛するものがあるうちは、幸せだ。
 
何となく、人間の醜さばかり目に付くと、人生つまらないですね。
 
もっともっと愛し愛される人間の存在も、とても大切かもしれない。 
 
 
 
 
 
今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。
 
   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
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    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。
 






2021.4    一時休業について
 
 4月1日に、私(野田)は、網膜剥離の手術をし、4月9日には退院したのですが、4月15日の検査で、また別な部位で網膜剥離が起きていることが判明しました。
 おそれいりますが、4/16~5/6まで、自社サイト(http://www.smile-stone.com)とヤフーショッピイングスマイル仏壇 https://store.shopping.yahoo.co.jp/smile-stone/は休業とさせていただきます。
 
 下記の楽天市場は、営業していますので、お急ぎの方はご利用ください。
 担当部署が違いますので、販売価格等は異なります。
 
【スマイル仏壇】仏壇・仏具・位牌の激安通販専門店 (rakuten.ne.jp)
 
 
 
 
 
 4月23日が65歳の誕生日で、これから黄金の70代に向かって、突き進む予定なのですが、いやはや、右目が失明するかも知れず、それでも、すべて受けいれる覚悟です。
 まだ親と子供を養っている身ですから、しばらくは、ふんばります。
 そして、私の一番大切な「人はいかに生きるのかをつきつめたい」「おおぜいの人々を幸せにしたい」という願望を、何とか成就したいと思います。
 
 私も、我が師を始め、立派な方々の生きざまを見たり聞いたり読んだりしてきました。
 どんなに立派なお方でも、病気になれば、それなりに悩むし不愉快な思いはあります。
 ただ、そこにとどまらない。
 自分なりにふんぎりをつける。
 病気や災難も、避けがたいところがありますから、やはり受け入れるしかなく、そして、明るく元気良く生きていくしかないですね。
 
 できることを、きちんちとやって、できないことはできないので仕様がないですね。
 できる範囲内で、できる限り、明るく元気よく頑張るしかないですね。
 
 今、大変な思いをしていらっしゃる方もいらっしゃいますよね。
 お互い頑張りましょうね。
 
 
 


今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
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021.3   執着しないことの大切さ

この頃、執着しないことの大切さを思っている。
ブッダのことば(スッタニパータ)の後半部分で、ブッダがしきりに執着することがなくなることの大切さを繰り返し繰りかえし語っていらっしゃる。
執着するな、執着するなと、おっしゃっているのである。

そういえば、達磨大師のあとをついだ慧可(えか)が、「最近、すっかり執着するということがなくなりました」と達磨大師に言ったとき
達磨大師は「すっかり何もかも忘れてしまったのではないか」とお聞きなりました。
慧可は「ところが、何もかも、はっきりはっきりしているのです」とこたえている。
達磨大師は「それは祖師方が通ってこられた境地であるから、大切にしなさい」とおっしゃっています。
慧可は達磨大師の弟子になるために、片腕を切り落として達磨大師に自分の意志の強さを見せたような、執着心の非常に強い人間です。
その人間が、物事に執着しなくなった。当然悟ろうなどという気持ちも亡くなったに違いない。
ところが、物事というか世界がはっきりはっきりと見えるようになったというのである。

無難禅師は、「生きながら死人となりてなりはてて、思いのままにするわざぞよき」と歌を作っていらっしゃる。
これは、わが身に執着するな、すべてに執着するなということである。

良寛さんの生き方も、名声や名誉、お金や財産などとは無縁の生き方で「死ぬときは、死ぬのがよい」とでも言わんばかりの暮らしぶりです。

我が師、紀野一義先生は「人からよく思われようなんて、そんなのは駄目だ」とおっしゃいました。
たったそれだけの言葉を肝に銘じても、普通に生きていれば嫌なことがたてつづきに起きたりします。
その嫌なことが、ケロッと忘れられる。いつの間にか、忘れている。
つまり執着しない生き方です。
これは、さわやかに生きる秘訣です。

私も、24才のとき「何者かになるためには、敢然とそれを守り押し通さなければならない」という格言を数年間壁に貼り付けて、肝に銘じたものでした。
心の底に、捨てきれないものがいくつかあって、それを思い出しては、何とかしたいと、あえいでみるのでした。

最近ようやく、そんな大切な思いも執着から解き放されたように思います。
執着するのもよろしいかとは思いますが、本来は、執着はよろしくないものなのです。
執着しないことの大切さを、一度考えてほしい。







今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。

    一、真実をもとめてひとすじに生きん。
      一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。

 









2021.2   真理と真実
 
 先月掲載の「コロナとお坊さん」については、めずらしく数通のお礼や感想、励ましのメールをいただきました。
 どうもありがとうございました。
 直接、返信メールでお礼を伝えてたいとも思いましたが、この場をかりてお礼を申し上げます。
 少しでも、私のメールがお役にたつこともあればと、毎月、ああでもないこうでもないと、あれこれ考えてメールを書いています。
 一人の人でも、私のメールを読んで、良かったなと思えていただけたら、それで良いのです。
 不愉快な思いをしたり、心を傷つけられる方もいらっしゃるようですが、その場合は、ご連絡いただければメールを停止させていただいています。
 
 私は、毎月のメールの最後に、紀野一義先生の教えとして三つの自誓を掲載しています。
 その二番目が正しくは「真実を求めてひとすじに生きん」です。
 いつのまにか「真理を求めてひとすじに生きん」と記載していることがあるようです。
 たいした違いはないようですが、訂正しておきます。
 真理では、理論のようで、少しニュアンスが違います。
 真実は、理論ではないですね。


   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真実をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。

 
 
 真宗高田派の村田和上について、このブログでも何度か取り上げていますが、この村田和上という方は、浄土真宗のお寺に生まれながら、浄土真宗が嫌で、天台宗のお寺で修業をしたという方です。
 天台宗真盛派の管長にもなられたお方のもとで修業されたのですが、やはり、すっきりしないどころか、大地がぐらぐらゆれて立っておれないぐらい迷い、やはり精神を病んでもいらしたようです。
 そんな時、浄土真宗西本願寺派の七里和上の噂をお聞きになり、九州博多まで会いに行かれた。
 それで初めて、南無阿弥陀仏の信心ということがわかり始めた。
 七里和上という人物に会い、初めて念仏の信心がわかりはじめた。
 足掛け3年、三重と九州を行ったり来たり、それは、七里和上に会いたくてしようがないから会いにいくという。
 そして、念仏の信心というものがすっかりわかり、揺れ動いていた心がぴたりとおさまりました。
 ひどく迷っていたものが、信心決定、悟りのようなものを獲得したのですから、その体験が、念仏がよくわからない一般の信者には、とても心うつものがあったようです。
 この村田和上が七里和上にあったのが、村田和上が30歳過ぎ、七里和上が60歳過ぎでしょうか。
 
 そして、紀野先生が師と慕う臨済宗円覚寺派の管長である朝比奈宗源老師が、村田和上にあったのが、朝比奈老師が30歳過ぎのころ、村田和上が60歳過ぎのころ。
 人生というのは、不思議ですね。
 妙好人として有名な島根県の温泉津に浅原才一という人がいるのですが、なんと若いころ九州の博多に住んでいて、七里和上のもとで念仏を学んでいる。
 浅原才一と村田和上は、どうやら同じ年代を生きていたようです。
 七里和上の感化する、教化する力はすばらしいものがあったようです。
 
 紀野先生にも、七里和上のような人を感化する力がありました。
 現在も紀野先生を我師とあおぐ人の中に、宗派の管長さんや管長クラスの人たちがいらっしゃいます。
 紀野先生は、宗派にかかわりなく仏教をわかりやすく広められました。
 紀野先生のそばにいると、仏様はいらっしゃるのだと感じることができました。
 これは理屈抜きです。
 
 ある時紀野先生に、本にサインをしていただきました。
 
 「迷っても悟っても、仏のいのちの中。
  死んだらまた会おうな。」
 
 どうやら、死んでも、それで終わりではないようです。 
 
 仏というものを、または仏のような存在をどのように感じるか、信仰するか、とらえていくのかは、それぞれ、その宗教、宗派、指導者たちによって異なるのだと思います。
 朝比奈宗源老師は「キリスト教もイスラム教も、仏教の一つだよ」と、おっしゃったことがおありのようです。
 できる限り、良き師とのめぐりあいがあることを、お祈りします。
 あせることはない、じっくりとその時期を待ち、真実をもとめてひとすじに生きていきたいものです。
 正しい師は、生きることの喜びを教えてくれるそうです。
 自然と生きる喜びがわいてくるような、そんな教え、出会いがほしいものです。
 
 
 
 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

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2021.1 コロナとお坊さん
 
お客様のお話では、つい先日お母さまとお父様が1週間違いで亡くなったのことだった。
あとから亡くなったお父様はコロナで亡くなったのだが、戒名がなかなかもらえなかったとのことだ。
通常は、葬儀に間に合うように戒名を授与するのだが、 お坊様がいうには、葬式が終わらないと戒名がつけられないとか・・・・・。
いったいどいうことなのでしょうかと、お客様に聞かれて、私も、なんと答えていいのやら、「何か事情があったのでしょうね」と言って言葉を濁してしまった。
推測だが、コロナで亡くなったから、その亡くなった方や家族の方に近づくことを恐れて、戒名授与が遅れたのかもしれないと思った。
電話やFAX、メールでやりとりすれば、戒名授与はできたはずであるのだが・・・・。
話しによれば何代にもわたって、檀家としておつきあいのあるお寺である。
本来なら、亡くなった方のために枕経をあげたり、お通夜や葬儀にも参列いただかなければならない。
コロナだから、親族でもなくなった方に会うことはできないのは、承知している。
親族でも火葬した遺骨で死後初めて対面することになる。
でも、戒名を授与することは、問題なくできたはずである。
おそらくコロナで亡くなったと聞いて、そのお坊様は狼狽なさったのではないかと思ってしまう。
たまたま、このようなことが起きたということであろうか。
 
私の実家の旦那寺は、小さな貧しいお寺である。
たまに住職とは、お話しをするこがあった。
私が、中学生の頃だったであろうか、その住職が「県堺を超えたところに山深い村があるのだが、その村の檀家さんがらい病(ハンセン病)になった。
その家で葬儀が出た。親父は、わしが行かなくて、誰が行くと言って、半日以上かけて山を越え峠を越えて行きました」
ハンセン病といえば、当時は忌み嫌われた病気だったようです。
やはり、ハンセン病の患者の家には、お坊様でも行かない方がいたのではないでしょうか。
私の近所には、それなりに大きなお寺が多くありますが、これは私の小さな旦那寺を誇りに思うようになったきっかけのお話しです。
 
ちょうどその頃、尊敬もっし親しかった学校教師が、田舎づきあいで酒を酌み交わして返盃で、人の盃で酒を飲まなければならないのが嫌だと言っていました。
梅毒がうつるかもしれないし、汚くて嫌だというのです。
誰だって、病気に感染するかもしれないのは嫌なのはわかります。
普段は教師として、平等と平和と愛の権化のようなまあ、私の勝手な思い込みですが、尊敬し慕っていた教師ですが、やはりどこかすれ違うところがありました。
 
私は、あまり気にしたくないな。。
そういうう私のような人間のそばには正直近寄りたくないと思う人も多いでしょう。
もっとも、そんな私の内面は、誰も知りませんから、普通にやっています。
(実際にはマスクもつけているし手洗いも消毒もうがいも人並みにやっていますよ。)
 
我師(紀野一義先生)も、戦後復員して岡山県津山市で過ごしたときに、肺結核の親友二人、
一人は共産党員のミズシマシンジ、一人はクリスチャンで国文学の研究者であったミズタショウジロウ、その二人が肺結核で亡くなるまで何らかわることなく過ごされた。
ミズシマシンジ氏が、東京から津山に帰ってきた紀野先生を津山駅で出迎え、嬉しくてしようがないといった満面の笑みを浮かべている姿。
ミズタショウジロウ氏が、病室で研究論文を代筆してくれる紀野先生に「すまんなあ、すまんなあ」と何度となくあやまっている姿。
私は見ていたわけでもないのに、鮮明に思い出す。
色んな、出来事、ドラマがあるようです。
 
 
生き方は、人それぞれです。
どれがいいの悪いのはないと思います。
健康と衛生には十分注意しながらも、おおらかに生きていきたいものです。







今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。

    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
      一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。









2020.12  「年末を迎えて」

今年をふりかえっても、すべての過去をふりかえっても、ほんの少し精神的に成長したかもしれない程度である。
真実、真理をもとめてきた自覚は人一倍あったようには思うが、なんとも情けない状態である。
最近「仏陀のことば」(スッタ・ニパータ)中村元訳を読みかえしているのだが、悟りというか、清らかな心というか、安心の心というか、そのようなものを得るためには、学問や思想や哲学や宗教によってはならない。戒律も教義にもこだわってはならないようだ。
あるがままを見るような、まったくこだわりや執着のないような、状態が必要のようだ。
仏陀の教えには、非常に多くの戒律があったように思うが、仏陀は何ものにもとらわれない心を非常に大切にされたようである。
読めば読むほど、そうなのかと思うが、なんと表現していいのかわからない。
ただ、般若心経に書かれているように、過去現在未来の如来(仏)が、衆生(すべての人々)を救うために、このうえない悟りを開かれたということは、何となくわかるような気がするのである。
だから、衆生は悟らなくても、安心しなさい・・・、といっても、安心などできるわけがなく、多くの人々は、不安と悲しみ恐怖におそわれてしまうのだが・・・。
それを何とかしたいというのが多くの仏の願いだったのではないか。
それなのに、どうも、この世の中、救われているようには見えないのだが・・・。
諸法実相、本来、いいも悪いもないので、ただそれを思うのは人それぞれ個人の思いだから、苦しみも悲しみも、不安も、結局は個人の勝手な思い込みにすぎない。

いつまでも、こんなところで、どうどうめぐりをしていても、しようがない。

老いてくれば、そろそろお迎えも近いのだから、すっきり生きればいいようなものだが、すっきりした年寄りにあまりお目にかかれない。
先日たまたま仕事の関係で電話した年配の男性は、いきなり「野田さーん。野田さんなの」と、初対面なのに旧知の知り合いのような感じだったけれど、本当に会えばどんな人なのだろう。
私が、毎月書く、このブログを読んで、なるほどね、そんなこともあるよなと思ってくださっているのだと思う。

私もいまだに人生いかに生きていくのかがわからない。

でも私は、あまり歳を感じたことがない、いまだに子供のとき、少年のときとあまり変化していない。

最近、紀野先生の「生きるのが下手な人へ」という本が復刊されたが、その冒頭の一章のテーマは「人間いかに生きようが、何をなそうがなすまいが、たいした違いはない」ということであった。
山本周五郎の「虚空遍歴」という作品が紹介されているのだが、周五郎の座右の銘である「人間の価値は、何をなしたかではなく。何をなそうとしたかである」に対する紀野先生の山本周五郎へのメッセージでもある。山本周五郎は、紀野先生のメッセージを知り、是非紀野先生に会いたいという電話をなさったが、会う直前で病に倒れられてしまった。
お会いになっていれば、どうなっていたのだろうかと、残念でならない。

紀野先生の会には、これといった戒律とか規律はなかった。
何事にもとらわれていないような、真実をもとめ、仏をうやまい、おおぜいの人々の幸せを思う心があったのだと思う。


今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。

    一、真実をもとめてひとすじに生きん。
      一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。












2020.11  衆生本来仏なり
 
 白隠禅師の座禅和讃は冒頭「衆生本来仏なり」(しゅじょうほんらいほとけなり)で始まる。
 私たち人間は本来誰でも仏だというのである。
 そのことに気付かず、多くの人間が苦しみあえいでいることがはかないことだという。
 私の子供の頃にも人には皆誰にも仏性があるということを、どこかで聞いたことがある。
 仏性があるのに、その人間がとんでもない悪事をはたらくのはどういうことなのか。
 なぜ仏性があることが、わからないのか。
 仏性があることがわかったら、どうなるというのか。
 もしわかれば、すてきな心もちで、にこにこ日々を過ごすのではないかと思うが、でも毎日にこにこしているようでは、なんとつまらない人生ではないか。
 誰でもが、極楽浄土や、天国に生まれたいと願うが、私は、少し違う。
 もし極楽浄土で長く生活したら、それはそれは退屈でしかたないのではないだろうか。
 疲れた時、しばし、極楽浄土で休憩ということなら、これほどありがたいことはない。
 そうして、また、人間界にもどってきて、ああでもないこうでもないと、のたうちまわりながら、こんな汚れきった世界で美しく生きることの喜びをかみしめたい。
 この醜い世界で美しく生きることは非常に難しいから、美しい心をもった人間に出会える喜びはひとしおだ。
 
 山本空外先生の言葉であったと思うが「一一各各性」(いちいちかくかくせい)というのがある。
 この言葉は、一つの個性と個性が、その個性の繊毛の先と先が触れ合って、電気がぴりぴりと流れるような人との出会いがすばらしいということだった。
 そのためには個性がなければ、駄目である。
 いつも人まねばかりして、人目を気にしてばかりの生き方では、ちゃんとした個性は芽生えない。
 やはりいくつもの苦難をのりこえ、それでもかわらないような不変の心のようなもの。
 そういった不変の心とか個性を持った人間と人間が出会い、心と心がふれあい、しびれるような出会いがほしいものだ。
 やはり人間世界の方が、おもしろいに違いない。
 せっかく、このどうしようもない、どろどろとした人間の中で、しっかりと生きて、一輪の花をさかすことができたら、どんなに素敵だろう。
 
 そのためには、お釈迦様がしつこく言われたように執着をなくすことだ。
 家、親、子供、兄弟姉妹、妻、夫、恋人、お金、名声、様々な欲望に執着しないことだ。
 欲は起きてあたりまえ、そこに執着しないことだ。
 自分の命にも執着しない。
 自殺しろと言っているのではない。自殺は色んなことに執着して行き詰まってしまうからなのだと思う。
 執着しなくなれば、逆に自由な心が手に入る。
 
 良寛さんのように乞食坊主の生活は執着がなく、良寛さん自身は自由でのびのびとした心でいらしたのではないかと思う。
 
 そうして、良寛さんや執着をなくした人には悟りのようなものがおとづれるのではないだろうか。
 
 私は、悟りとか極楽には、それほど興味はないが、真実をしりたいという思いは深い。
 
 お釈迦様の最後の言葉の解釈も様々だと思うけれど、「心はうつろいやすい。その心をじっと見ていなさい」と紀野先生は解釈されたのだと思う。
 また最近、この自分の心をじっと見るということが非常に大切なのではないかと思うようになったのである。
 
 じっと自分の心を注意してみていると、何かが見えてくるのではないだろうか。
 
 衆生本来仏なり。
 
 そんなことも、そうなのかと思えるような日がくるのではないかと思うのである。
 
 本当に、いかに生きていけばいいのか、わからないことだらけである。
 とりあえず紀野先生の言葉を心に留めながら、生きるだけでも、十分である。
 


今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。

    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
      一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。














2020.10  紀野一義先生の「生きるのが下手な人へ」が復刊
 
 昭和49年に光文社から出版されベストセラーになった「生きるのが下手な人へ」が文響社から復刊されました。
 この本のベストセラーにより、詩人の相田みつお、坂村真民さんが広く知られるようになったことは特筆すべきことです。
 この本に登場する多くの人は、当時はあまり知られていない人たちですが、不器用ながらも自分の人生を生き切った人たちです。
 生きたくても病気で死んでいく人たちが多いのですが、その病によって、見えないものが見えるようになり、病に感謝するような生き方があります。
 自ら死にたいという思いは多くの人にあろうかと思います。
 生きていることと、死ぬことは、ちょとしたことで、どちらに転ぶかは、運命的かもしれません。
 生きたくても、死ななければならない人が大勢います。
 死にたくても死ねない人もいれば、事故や自殺であっけなく死んでいく人もいます。
 
 私も、何度か死にたいと思う年月を過ごしたことがあります。
 ひょとしたら死んでいたかもしれないと思うし、ちょとしたこと、どうでもいいようなことが心の支えになって生き続けています。
 生きている以上生き抜かなければならないという、紀野先生のメッセージがあります。
 どうせ死ぬ気なら、一度死んだつもりで、もう一度生きなおしてほしい。
 いろんなしがらみも、どうせ死ねば切れるのだから、生きているうちにしがらみなど切ってしまえばいい。
 完全に断ち切れなくても、少しはたちきれるでしょう。




 
 「生きるのが下手な人へ」が「うんこ漢字ドリル」で有名な文響社から復刊




 
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      一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。









2020.09  水色と石ころ

 

日の暮れた街々のてっぺんには

なぜか水色の空がはてしなく広がっていた

僕はずっと向こうの星に

きれいな娘が住んでいるかもしれないと思うと

だんだんと 小さな点になり

石ころの中の原子のような気になった

そして つつましく生きようと思った

何もかもが僕の心に生きている

僕はせせこましく飛躍することなどよして

心に感じるものだけを愛そう

なぜか 石ころさえもが愛くるしいのだ

 

※確かこの詩は以前も取り上げたような気がする。僕にとっては、思い出深い詩なのです。

 

この言葉(詩?)を書いたのは、昭和50年のちょうど今自分の9月、少し秋らしくなりはじめたころのことだったように思う。

警察学校の寮の土曜日の夜の屋上で、一人夜空を見ていた。

わけあって3か月の追加処分で外出外泊禁止中のことだった。

土曜日の夜は、校内にも寮にも日直と寮当番以外は誰もいない、寮の屋上。

不思議に青く澄みわたった夜空をながめながら、遠い星の向こうに、美しい娘が住んでいるかもしれない、と思った瞬間、自分のどうしようもないちっぽけさを感じた。
時々、遠くに住む、美しい娘の姿も思ってみたりもした。

 

最近別れた女性が、その娘ではなかったのかと、別れたあとになって、つくづくそう思い、世の中の無常、非情を思いもするのである。

まっ、しようがないよな。

 

何がおきようが、どう生きようが、人間の人生なんてたかがしれている。

 

何をなそうが、何もできなかろうが大きな宇宙から見れば、チリほどのこともない。

 

そのチリほどもない人生を、ああでもない、こうでもないと、日々、悶々と生きるバカらしさ。

 

自分のやりたいことは、しっかりやりなさいよ。

 

思いきりよく、生きなさいよ。

 

でも大切なのは、人々の幸せを願う気持ちですよ。

 

我師の、自省(自誓)の言葉を繰り返しながら、これでも、人目にはさわやかに生きています。

 

 

 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
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    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。









2020.08  「生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするわざぞよき」について思う
 
「生きながら死人となりてなりはてて 思いのままにするわざぞよき」とは、1603年関ケ原の戦いのあった頃に生まれた無難禅師の道歌である。
大名の宿となった本陣の家に生まれ、50歳を過ぎて出家し、73歳で亡くなり良寛禅師のように寺の住持になることもなく庵で過ごした禅師である。
良寛は、1758年生まれで、大名主の家に生まれ20歳頃に出家しているが、どことなく、共通点があるような気がする。
私が大好きなのは、良寛さんだが、無難禅師も良寛さんのような人物に出会ったら、どうなっていたのだろうか。
 
男というものは、どこか厳しい修行でもしないと、人間として一人前になれないような思いがある。
生きながら死人となりてなりはてて・・・。確かに、徹底して執着のない世界のようでなるほどと思うが、さて、そんなこと誰にもできないだろうと思ってしまう。
そんなに気張らなくても、もっと、簡単に素敵に生きれないものだろうか。
 
良寛さんが「子供には、マコトがある。だから、子供が好きだ」とおっしゃたように、誰もが子供であったのだから、何とか、子供の頃の心を、もう一度再現できないものだろうか。
 
生きるということが大変で、世間は大人になることばかり、子供に教えているが、大人は子供に学ばなければならないのかもしれない。
 
そして最後は赤ちゃんの姿に、多くを学ばなければならないのかもしれない。
 
子供の心を少しでも取り戻せば、なんと、空が青いことよ。
 
不思議だよな、子供の頃も、結構つらい日々だったのに、まだ、あの頃が光輝いていた。
 
何と、情けない日々・・・・。






 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

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    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
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    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。

2020.7  「南無地獄大菩薩」
 
 南無地獄大菩薩(ナムジゴクダイボサツ)の言葉は、白隠禅師の言葉で、白隠禅師直筆の書も多く存在するようです。
 何が、地獄がそんなにありがたいものであろうか。嫌な言葉だと思います。
 白隠禅師は子供の頃、お寺で地獄の話しを聞き、自分は虫や魚をたくさん殺したから、絶対地獄に落ちるだろうと思い、怖くて怖くてしようがなかったようです。
 そして地獄に落ちないためには、お坊さんになるしかないと思って、お坊さんになったようです。
 そして深い悟りの境地に達して、生きるも死ぬも地獄も怖くなくなったということです。
 地獄の恐怖を感じなかったら、お坊さんにもならず、深い悟りの境地も得ることができなかったのですから、地獄は何ともありがたい存在だったわけです。
 それも地獄が仏様のようにありがたいということらしいので、何ともいいがたいですね。
 白隠禅師は、ノイローゼというか鬱病というか、禅病というか、精神を病んだことがおありです。
 それを何とか克服して、大悟は三度、小悟は数えきれないほどだそうです。
 悟りも一度で終わるものではないと知り、少し唖然とします。
 そして、地獄はなんとありがたいものか、地獄があってこそ、地獄が悟りへの道だというばかりの境地のようです。
 
 日々、平々凡々と過ごしていると、知らぬ間に欲にからまれ、あれがほしい、これがほしい、もっとほしいと、欲の追及で日々が過ぎ去り、あっという間に、死を迎えます。
 死ぬ直前になって、死んだらどうなるのだと思っても、怖くて怖くてしようがなくなっても、ちょっと手遅れですね。
 早い時期に、死にたいとか死にそうなほどの悲しみや苦しみに出会うことは、人を変えるチャンスに違いありません。
 いかに生きるのがよいのか、死んだらどうなるのか、死んでもくいのない生き方をしたいものです。
 
 子供の時から地獄を恐れ、死を恐れ、いかに生きていくのが良いのかを考えさせられることは良いことかもしれません。
 甘い優しさだけでは、人間も腐ってしまう可能性があります。
 やはり人は、時には、この世の地獄を見て、経験して、目をさましたり、人生を深めていきます。
 
 ああ、南無大地獄。
 地獄のような経験はしたくもないのですが、長い人生には、必ず地獄のような苦しみがおとずれることがあります。
 その経験が人を成長させてくれることを祈ります。
 
 私も、最近、ある人との別れがあり、どうしようもない悲しみにつつまれ、何とか立ち直りつつある最中です。
 お互い、がんばりましょうというところでしょうか。



白隠禅師の書


















2020.6   「言葉を 書き話すということについて」
 
 
二十歳の時に、この世の形見にと思って詩集を自費出版した。
そのあとがきに、「書くことから遠ざかることを恐れている。自己の主張を求めている。自己の肯定、肯定される。
多くの人から、いや、一部でも、それに納得する価値があれば。いや、真実を求めて。

ゆるぎない真実を求めて。いつかは賞賛される真実と、自己だけでも満足のできる真実を求めて、安らかなるうぬぼれの許しを求めて。

そのために自分は、書くという行為から遠ざかることを恐れている。」と書いている。

 

あれから44年、書くという意志はあっても、ほとんど書きもせず、あいかわらず迷いの中を生き続けている。

よく言えば、迷いながらも、それなりによく生きてきたものだ。

 

最近の作家の小説等はほとんど読まないし、読もうという気持ちもわかないが、毎月知人から送られてくる通信誌を興味深く読んでいる。

お会いして姿形を見ているだけでは、とてもわからない、その人となり、考え方、生き方が伝わってくるのだ。

また、その人の友達の手紙なども紹介されているが、びっくりするほど、その友達の人の内面や考え方生き方も、よくよく伝わってくるのだ。

書き手がすばらしいということでもあるのであろうが、書くということの大切さをあらためて思わされる。

 

 

ゲーテは、どんな低俗な小説でも、言葉であれば、必ず少しは光輝く何かがあると言っている。

蓮如上人は「ものを言え、ものを言え、ものを言わぬはおそろしきなり」と言っている。

 

ことばを書き、ことばで語るということには、大切な何かがある。

見ただけではわからない。

言葉にして、書き、語ることによって、ものごとは深められていく。

 

沈黙も、ものすごくいいと思うのだが、沈黙したままでは伝わらない。

短い言葉でもいいから、書き、語らねばならない。

 

 

「はじめに ことばあり ことばは神とともにあり ことばは 神なりき」

このように、聖書にも書かれているではないか・・・。

 

 

 

 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真実をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。










2020.05   「オマエモシヌゾ」 ある教育者の言葉
2020.6   「言葉を 書き話すということについて」
 
 
二十歳の時に、この世の形見にと思って詩集を自費出版した。
そのあとがきに、「書くことから遠ざかることを恐れている。自己の主張を求めている。自己の肯定、肯定される。
多くの人から、いや、一部でも、それに納得する価値があれば。いや、真実を求めて。

ゆるぎない真実を求めて。いつかは賞賛される真実と、自己だけでも満足のできる真実を求めて、安らかなるうぬぼれの許しを求めて。

そのために自分は、書くという行為から遠ざかることを恐れている。」と書いている。

 

あれから44年、書くという意志はあっても、ほとんど書きもせず、あいかわらず迷いの中を生き続けている。

よく言えば、迷いながらも、それなりによく生きてきたものだ。

 

最近の作家の小説等はほとんど読まないし、読もうという気持ちもわかないが、毎月知人から送られてくる通信誌を興味深く読んでいる。

お会いして姿形を見ているだけでは、とてもわからない、その人となり、考え方、生き方が伝わってくるのだ。

また、その人の友達の手紙なども紹介されているが、びっくりするほど、その友達の人の内面や考え方生き方も、よくよく伝わってくるのだ。

書き手がすばらしいということでもあるのであろうが、書くということの大切さをあらためて思わされる。

 

 

ゲーテは、どんな低俗な小説でも、言葉であれば、必ず少しは光輝く何かがあると言っている。

蓮如上人は「ものを言え、ものを言え、ものを言わぬはおそろしきなり」と言っている。

 

ことばを書き、ことばで語るということには、大切な何かがある。

見ただけではわからない。

言葉にして、書き、語ることによって、ものごとは深められていく。

 

沈黙も、ものすごくいいと思うのだが、沈黙したままでは伝わらない。

短い言葉でもいいから、書き、語らねばならない。

 

 

「はじめに ことばあり ことばは神とともにあり ことばは 神なりき」

このように、聖書にも書かれているではないか・・・。

 

 

 

 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真実をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。



 
 哲学者の西田幾多郎の弟子であり、真宗の傑僧である暁烏敏の弟子でもあった毎田周一という教育者に「オマエモシヌゾ」という言葉があります。
 毎田周一の弟子達は、その言葉を仏壇に貼りつけて、毎日わが身を省みていたようです。
 
 浄土真宗の蓮如上人は、「信心が起きません。どうすれば、信心が起きますでしょうか」と尋ねる弟子に「明日、死ぬと思えばよい」と応えています。

 一休禅師は、正月早々からドクロを杖にさして「ご用心、ご用心」と京都の町を練り歩いたそうです。
 
 私たちは、日々何となく生きています。
 いずれは死ぬことはわかっていますが、日々を真剣には生きていません。
 限りある命を、もう一度自覚して、悔いのない日々を送りたいものです。
 遠慮ばかりしていたのでは、もったいないですよ。
 やりたいことがあれば、しっかりやった方がいいですよ。
 
 女優の岸恵子は、去年の87才の時だと思いますが、「自分は年寄りだと感じたことはない」と語っています。
 彼女は、見た目もずいぶんと若いですね。
 「私は、本当は心配性であるんだけども、気持ちは明るい方に向いています」とも語っています。
 矛盾しているようですが、確かに誰でも本当は弱いのですが、そこをどうやって、勇気をもって生きていくかということではないでしょうか。
 岸恵子さんには、老齢の恋や生きる喜びを、演劇や小説の中で今後も表現してほしいですね。
 
 そして、もっともっと、多くの老齢の人々に活躍してほしいですね。
 
 私もがんばりますよ。
 私の人生、これからです。



 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。









2020.4  新型コロナウイルスと仏壇店
 
私は、インターネット販売だけでなく協力会社の実店舗の営業も手伝っています。
やはりお年寄りの来店は、めっきり減少して、若者が祖父母や親に代わって、位牌や線香の購入で来店というがケースが増えています。
新型コロナは、重症の肺炎を引き起こしますから、お年寄りは特に注意が必要です。
しかし、若者も、新型のウイルスですから免疫力というか、抗体がまるでない状態ですから、やはり、お年寄りと同じくらい注意が必要です。
100年前の第一次世界大戦のさなか、スペイン風邪という流行性感冒(インフルエンザ)で世界中の死者は戦争による死者を上回り、正確な統計がないようですが
1700万人〜7000万人といわれています。
それに匹敵するような危険をはらんでいるのが、今回の新型コロウイルスです。
急激に患者が増えていますが、医療機関が対応できない状況になると、本来なら助かった人も命を失う危険性があります。
十分な医療体制の確保や、今後は重症患者優先の入院治療も必要になろうかと思います。
国の対策が、布製マスクの配布というレベルでは、あまりにも素人の対策で、適格な指導力を疑いたくなります。
もともと政治家の指導力は、それほど期待できないにしても、それぞれの専門家の適格な意見はどのようなものなのでしょうか。
どこかに、しっかりとこの危機を乗り切る名案をお持ちの方もいらしゃると思うのですが、なかなか日の目を見ることはないのでしょうね。
今回の新型コロナウイルスの問題を、非常におさえ込んでいる台湾には、優秀なる人材が活躍しているようです。
この件については、マスコミでも一部報道されているので、良き事例として今後大いに取り上げられればいいなと思っています。
たった一人の人材でも、国を救うことができると思うのですが、はたして、今の日本にも救世主は現れるのでしょうか。
 
どれだけの被害が出るかは想像がつきませんが、いずれは収束します。
一度ウイルスに感染すれば、抗体ができ、同じ病気にはかかりにくくなります。
しかし、それが1、2年で有効な解決策となるのか、早い時期に特効薬やワクチンが開発されるのか。
 
私も、糖尿病でインスリン治療をしている身の上ですから、感染したら、重症化しやすいのでしょうが、ほとんど気にしていません。
やはり死ぬときは死ぬんでしょうね。
やりたいことは、まだまだ山ほどあるのですが、死んだら、来生へ持ち越しですかね。
 
ナマンダブツ、ガハハハ・・・。失礼。




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2020.3月   泣きながら生まれ、笑いながら死ぬ
 
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジが「私は泣きながら生まれ、笑いながら死んでいく」と言っています。
マハラジは、般若心経の説く「色即是空」、心も身体も地球も宇宙も実態がないという世界を説いているようです。
時間も空間もない世界があり、ただ「私はある」という感覚に至りなさいと言っているのではないかと思います。
禅宗でいう悟りの世界に近いのかと思うのですが、その世界は愛と慈悲に満ちた至福の世界だと言います。
 
悟りというものは言葉では表現しきれない世界のようですが、良寛さんの悟りは「まぶしいまでの光に満ちた世界」のようです。
その良寛さんは、悟ったからと言って、悟りすました顔をした奴は好きではないと言っています。
確かに、3歳年下の幼なじみでもあり、仏法の弟子でもあった三輪佐一が47才で結核で死んだときには、良寛さんは嘆き悲しんで病の床に臥せてしまいます。
我師、紀野一義先生も「悟ったから、親が死んでも泣かないなんていう奴は好きになれない」とおっしゃたことがあります。
本当に悟った人は、「暑ければ暑いといい、寒ければ寒いという。普通の人とちっとも変わらないよ」とおっしゃいました。
その悟った人とは柴山全慶老師や朝比奈宗源老師のことでもあり、紀野先生本人の生き様でもあったように思います。
 
悟ったら悲しみがなくなるのかといえば、そうではないようです。
ただ、悲しいまま、それはやがては癒えていき、悲しみが心を研ぎ澄ませてくれるということでしょうか。
 
お釈迦様は、「私にも欲がある。最高の幸せを求めている」とおっしゃいました。
 
お金を儲けたり、出世したり、王様のような権力者になったり、美しい娘たちに囲まれ、音楽や踊りに酔いしれるようなものよりはるかなる幸せ。
無私の愛と愛がふれあい共鳴するような世界。
そのためには、自分自身が無私無欲で人を愛せるようにならなければ、より深い幸せはつかめそうにない。
 
ところで、ニサルガッタ・マハラジは、「私はある」という感覚の世界は、愛に満ちているという。
死についても、身体や頭や心が消滅するだけで「私はある」という感覚は、永遠であり、時間も空間もない世界だという。
多くの西洋人がニサルガダッタ・マハラジに質問をして、マハラジは懇切丁寧に答えている。
西洋人には、どうやらマハラジの教えが、まるでわからないようである。
それが1冊の本「I AM THAT」(私はある)にまとめられている。
マハラジと西洋人の問答を読みながら、日本人なら、マハラジの言っていることがもっとわかるだろうにと思う。
ましてや禅宗のお坊様が、マハラジの教えを聞いたら、「そうだ、そうだ」と言ってくれるのではないかと思った。
 






 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

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2020.2   「黄金の70代」


我師、紀野一義先生は「黄金の70代」ということをおっしゃたようです。
何人かの70代の紀野先生の真如の会の仲間も、そういっていました。
私は、直接、その言葉を聞いていないのですが、何かの著書にも書かれていたようにも思います。
そういえば、確かに、先生の100冊以上の著書のうち70代での著書も多いようです。
 
お亡くなりになる前年の90才までは、毎月、鎌倉の大仏、池上本門寺、四谷の安禅寺、谷中の全生庵、本行寺と講話がありました。
それぞれが、30年、40年、50年も継続されてきたのですから、この世の移り変わりとは異なって、変わらぬ真理があってのことと思います。
 
先生が、50代の頃にお書きになったものを読むと、「仏様に、お願いしてあるから90才まで生きるだろう」と書かれています。
先生が85才の頃からは、10メートル歩いては、一休み、また一休みで、それぞれのお寺に講話にお出かけになることも大変になりました。
最初は、先生の左脇に手を差し入れて、一緒に歩いていたのですが、先生の脇下は汗でびっしょりでした。
その頃の講話では、戦争中の話しを何度も何度も繰り返しなさいました。
戦争中何度も何度も死んでいたかもしれないのに、不思議と先生は危機を乗り越えていきます。
どう考えても、目に見えない仏様が、紀野先生を守り、紀野先生も守られていることを、しかと感じられたということなのかも知れません。
街中の、ふとした、地蔵様にも先生は手を合わせられます。
それが、89才になられた頃から、地蔵様には手を合わせられることはなくなりました。
四谷の安禅寺の入り口には「たんきり地蔵」という大きく立派な地蔵様がいらっしゃいます。
この地蔵様にも手を合わせられることはなくなりました。
その頃は、一緒に食事をしていても、誤嚥で非常に苦しくせき込み息もできなくなりそうなくらい苦しまれることが何度もありました。
私は、なぜ、「たんきり地蔵」に手を合わせることをおやめになったのかがわかりませんでした。
こういうときこそ、手を合わせ、いつもの先生らしく「よろしく頼みますよ」とお願いされるのが、いいのではないかと思ったものでした。
でも、それは、90才までは生きそうだから、もうそろそろいいですよ、ということだったのかもしれない。
するべきことは、なしおえ、語るべきことも語り終えたということだったのかもしれません。
どれだけの人間が、先生の教えを理解できたのかは、定かではありません。
しかし、いずれは、先生の教えをはっきりと理解するものが現れるでしょう。
 
ところで「黄金の70代」と、先生はおっしゃり、先生は70代に十二分な活躍をなさいました。
 
私は、今年64才。
 
あっという間に、70代に突入します。
 
何とか「黄金の70代」を、立派に生き抜きたい。
 
そのためには、今の一日を、そうおろそかにはできない。
 
日々「黄金の70代」に向かって鍛錬しなければならない。
 
皆様もいかがでしょうか。
 
そんなに努力したり、才能や能力が必要だということではないと思います。
 
ちょっと、その気になるだけで、人生は輝きはじめるのではないでしょうか。
 
 
 
 

 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。










2020.1   「ないものねだりと絶対肯定」

私が小学校の3、4年生の頃だと思いますが、お寺の本棚にあった紫色の表紙の仏教童話全集を読みました。
いくつかの話しを、妙に覚えているのですが、その中の一話に「金剛石(ダイヤモンド)」の話しがあります。
ある若者が貴重で高価な金剛石を求めて、旅に出ます。
しかし、金剛石を見つけることもできずに、年老いて故郷に帰ったところ、なんとその金剛石は故郷の谷川の中にあったというのです。
 
この話しがふと私の脳裏によみがえることがあります。
私は、大切なものを見落としているのではないか。
大切なものをどこかに置き去りにしているのではないか。
 
たまに子供たちに接することがありますが、何でもない普通の子供の、またすばらしさに、どきりとさせられることがあります。
良寛さんが、「子供には、まことがあるから好きだ」とおっしゃったことを、しみじみと感じたりもします。
その子供たちも、いつしか、普通の大人になっていきます。
 
「流れ流れて東京を、そぞろ歩きは軟派でも、心には硬派の血が通う・・・」
二十歳の頃から、なぜかこの歌を口ずさんでいましたが、本当に、広島の山奥から東京に流れついてしまいました。
 
無意識のうちに、心が求めているものが、現実を作りだしているのかもしれません。
 
ゆるぎない真実というものを、求めてきたように思うのですが、それは、意外と、自分のすぐそばにあるのかもしれません。
 
それが見えない。
見えてしまえば、それで終わりなのか。
知らないからこそ、おもしろくもあるのかもしれない。
 
何しろ、悟ったりして、悩みの一つもなくなったりしたら、人生はどんなにつまらないだろう。
極楽浄土のように、美しく楽しく限りない喜びに満ちただけの世界なんて、想像しただけで、退屈でぞっとする。
 
やはり、人間世界で、悩み苦しみ、その中で、人の真心に触れることの方が、はるかに嬉しい。
 
あるお坊様が、不満の多い男におっしゃいました。
 
「おまえの女房は、おまえにちょうどいい」
「おまえの子供は、おまえにちょうどいい」
「おまえの会社は、おまえにちょうどいい」
 
笑っちゃいますよね、確かに多くの人は、ないものねだりで、日々は不満や愚痴が多くなりますが、何もかも、本当はちょうどいいのかもしれません。
我師の、教えの基本は、肯定、肯定、絶対肯定です。
 
そんなことはできない。
そうですね。
それも含めて肯定。
 
諸法実相。
すべてはあるがまま。
それを、いいとかわるいとか思うのは人の心です。
その心を変えれば、悪いことも良くなります。
 
それができるようになるには、やはり賢さや、想像力も必要かもしれません。
もしくは、バカになりきることです。
バカになりきることも難しいですね。
せめて、子供の頃の無邪気さを思い出して、心ひろびろとさわやかに生きたいものです。


 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。






2019.12   サンタクロースとキリストとブッダ
 
 もうじきクリスマスです。
 63才の私も子供の頃、我が家の煙突があまりにも細くて、サンタクロースが入ってこれないのではないかと心配したことを思い出します。
 我が家の娘など、小学5年生でも、今年はサンタクロースが来ないかもしれないと、真顔で心配していたことも思い出します。
 最近はクリスマスのプレゼントも、ご縁がなくなりました。
 
 サンタクロースもキリスト教の聖者の名前のようですし、キリストもブッダ(釈迦)も実在の人物です。
 キリストは、様々な奇跡を行い示しました。
 ブッダは、神通力を持つものと、何らかの事情で競われたことがあるようですが、神通力を使うことは否定されています。
 仏教は、特別な力を求めず、人間として、この世に生き、さまざまな苦労をして、いかに生きるのがよいのか、自分なりにしっかりと考えなさいということでしょうか。
 
 どうやら、この考え、思い、創造するということは非常に大切で、知識の世界を超越しています。
 そして愛とか慈悲といった心が大切で、これなくしては、より深く良いものは生まれないようです。
 
 キリストは、隣人を愛せよと言いながら、私は子供と親を分かつために来たとも言っています。
 子供が、クリスチャンになり、仏教徒の親と対立して別れても、なるほどと説明がつくわけです。
 仏教でも出家するときには、恩愛を絶つと誓います。
 
 ブッダは、執着してはならないとしつこく説いていますが、かたや、動物のサイのように、もくもくと自分の道を突き進めと言います。
 
 何だか、矛盾していますよね。
 しかし、この矛盾したままで、何となくそうなんだと思いますし、本当に、そうなんだろうと思います。
 
 私は、縁あって仏教を勉強していますが、世界平和にも仏教の教えは非常に役にたつと思います。
 仏教の基本は「衆生無辺誓願度」で、生きとし生けるものをすべてを救うということです。
 絶対できないと思えることを、誓い、仏となるにはおそらく、この誓いが成就したということなのだろうと思います。
 じゃあなぜ、今も、人は病み、老い、死に、苦しむのでしょう。
 なぜ、世界から戦争はなくならにのでしょうか。
 あなたは、いったい何をしていますか。
 
 インドのある聖者(ニサルガダッタ・マハラジ)が言いました。
 「ところで、君は、一人の人間でも本当に幸せにしたことがあるのかね」
 
 いやはや、確かに、一人の人間だって幸せにしたとは言えない。
 
 昔から、慈母に敗子ありとも言います。
 
 慈しみ大切に育てたのに、どうしようもない子供が育つものです。
 
 本当に何がよいのかわかりません。
 
 良寛さんは、しばらく縁にしたがって生きるだけ、と言っています。
 
 少し暗い話しになりました。
 
 我が師(紀野一義)先生の教えは「絶対、肯定。肯定!肯定!肯定!」
 
 「ええなあ!ええなあ!ええなあ!」の生き方です。
 
 どんなことも、肯定しようと思えば、肯定できます。
 
 肯定できないのは、少し、想像力が足りないのですかね・・・・。





今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。







2019.11  
臥薪嘗胆(がしんしょうたん)と法然上人
 
 
臥薪嘗胆(がしんしょうたん)は、復讐を成功するために苦労に耐えるという意味を持つ、中国の故事成語である。紀元前5世紀のの国家間の戦争に由来する。この成語の現在確認できる初出は、「嘗胆」のみならば『史記』巻41越王勾践世家であるが、「臥薪嘗胆」と揃った形では蘇軾1037年 - 1101年)の詩『擬孫権答曹操書』中の句「僕受遺以来、臥薪嘗胆』(11世紀後半に成立)に求められる。明治時代日本において、三国干渉が発生した時に、ロシア帝国に復讐するために耐えようという機運を表すスローガンとして広く使われた。(ウィキペディアより)
 
 臥薪嘗胆の言葉を初めて知ったのは、高校の漢文の授業でした。
 復讐するために、その恨みの気持ちを決して忘れてはならないと、とげとげしい薪の上で寝る、苦い肝を舐める。そのたびに恨みと復讐を思い、心に刻み込む。当時は、男なら、そのぐらい気力がないといけないぐらいに思いもし、なかなかの名言だとも思っていました。
 でも何とも、末、恐ろしいような言葉です。
 仇(アダ)をとる、仇をかえす。仇討ち。それが、美徳とする考えが確かにあるのです。
 
 今、韓国がしきりに反日で、国をあげて、日本への恨みを返そうとしています。
 つい最近の日本も第二次大戦中は「鬼畜米英」と、アメリカやイギリスを恨み、目の敵にしていたのです。
 
 台湾や朝鮮半島も日本の統治下に、同じようにあったのに、台湾の人々は日本人に非常に好意的です。
 しかし朝鮮半島の人は、日本人に非常に恨みを抱いています。
 それは台湾にいた日本人が、台湾の人々のために非常によく心も身も尽くした結果だろうと思います。
 朝鮮半島でも、朝鮮の人々に非常によく尽くした人々もいたのですが、やはり、それ以上に、虐げたことが多かったのであろうと思います。
 それと長い歴史の中で、いうにいえない複雑な思いもあるのでであろうとは思います。
 
 詩人の坂村真民さんは、戦争中朝鮮半島で女学校の教師をなさっていました。
 教え子を命がけで守っていらっしゃいましたから、教え子たちは坂村真民さんのことを戦後も慕っています。
 教え子さんの多くは、日本のことを決して悪くは思っていらっしゃらないことだと思います。
 朝鮮半島では、坂村真民さんような人が少なかったということでしょうか。
 
 坂村真民さんと我師である紀野一義先生は、親しい間柄でいらしたのですが、紀野先生は戦争中は台湾で工兵の将校として過ごされました。
 台湾は沖縄と並んで、米軍が上陸拠点として重要視した拠点ですから、爆撃がすごく、その結果不発弾もすごい量でした。
 紀野先生の所属する連隊の不発弾処理の専門部隊は、その不発弾処理に失敗して、壊滅状態でした。
 台湾の農民の多くは、不発弾が危なくて、農作業もできない状況があったようです。
 しかし軍は「不発弾にさわるべからず」という通達を出すだけであったようです。
 そこで紀野先生は、その通達も無視して、農民のためにも、不発弾の処理を行いました。
 その数1752発。
 特殊な爆弾もあったようですし、それでなくても一発の爆弾の処理は命がけです。
 三度ばかりは、爆弾の信管をぬいた瞬間にグサリと信管の針が紀野先生の指に突きささったことがあったようです。
 そのように現地の人々のために、命がけでで尽くした日本人も多くいるのです。
 
 
 ところで法然上人の父上のことですが、今の岡山県の県北で税を徴収するお役人であり侍でいらしたようです。
 税を徴収する役目柄、どうしても人の恨みをかうこともあったようです。
 その恨みによって、法然上人の父上は、敵対する侍によって、殺されてしまいます。
 子供の法然上人もその場に居合わせていたようですが、臨終の言葉は「決して仇討ちなどはしてはならない。このようなことが起きないようにすることが大切だ」というようなことをおっしゃたようです。
 仏教では「恨みは恨みによってはなくならない」と教えています。
 法然上人が出家なさったのも、父上の思いがあればこそのことであろうと思います。
 
 世界には、色々な宗教も思想も教えもあります。
 残念ながら、その教えは、どこかで対立したり、争いのもとになります。
 
 しかし、仏教の大前提は「衆生無辺誓願度」で、生きとし生けるもののすべての幸せです。
 お釈迦様は「恨みは恨みによってではなくならない」と教えていらっしゃいます。
 真の仏教を学ぶことが、世界平和につながることを祈ります。
 
 

 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。






大麦小麦二升五合(おおむぎこむぎにしょうごんごう) 2019.10
 
 
年配の方なら大麦小麦二升五合のおまじないの言葉は、どこかでお聞きになった方も多いのではないでしょうか。
正しくは、金剛般若経に出てくる言葉で「応無所住而生其心」(おおうむしょじゅにしょうごしん)といいます。
意味は「まさに住するところなくして、その心を生ぜよ」ということで、鈴木大拙博士は「どこにも根を生やさないで心を起こせ」といわれたようです。
おまじないの言葉ということで、何によく効くおまじないの言葉なのかは知りませんが、確か落語でも、このおまじないの言葉が出てきたように思うのですが、インターネットで調べてもわかりませんでした。
どうやらお婆さんが、大麦小麦二升五合(おおむぎこむぎにしょうごんごう)と、このまじないをとなえて占いをすると、非常によくあたるのだが、お坊さんから正しくは「応無所住而生其心」(おおうむしょじゅにしょうごしん)と教わって、その通りにとなえると、まったく占いがあたらなくなったという笑い話のようです。
 
こういったことは、確かにありますよね。
 
学者や知識人は、学術的に言ってそれは間違っているいないと言いますが、それは、あくまでも学問、知識の世界のことです。
 
好きだ嫌いだ、信じる信じない、真実真如等の世界は、そういった学問知識とは遠いところにあるのではないでしょうか。
 
それで大切にしてほしいのは、自分自身の感性とか心の方ということでしょうか。
 
本当に、自分が好きなものとは何でしょうか。
 
私たちの日々は、色んなしがらみにからまっています。
 
自分の心を見失っている状態から、本来の自分の心を取り戻すには、とらわれの心や執着を捨て去ってみることが大切だということではないでしょうか。
 
おそらく、そのような意識を持つことによって、新しい世界が開けてくるのではないでしょうか。
 
私が、大麦小麦二升五合「応無所住而生其心」のことに興味をもったのは、禅宗の六祖である慧能が、五祖から直接一対一で金剛般若経の講義を受け、応無所住而生其心の言葉に触れたときに悟ったということを知ってからです。
 
樵(きこり)であり文字の読み書きができない男(慧能)が、金剛般若経のお経を聞いただけで出家しようと思い、たった一人の母を捨て、出家しても僧にはなれず、臼引きの寺男のまま、一晩の講義で悟ってしまったという。
 
応無所住而生其心の言葉が、天地をひっくり返すほどの威力があったということなのです。
やはり、これは、すごい言葉なのだろう。
おまじないであろうが、大麦小麦二升五合であろうが、この言葉は心にとめておかなければならない。
 






 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。
   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。

自未得度先度他(じみとくどせんどた)  2019.9


自未得度先度他(じみとくどせんどた)は、道元禅師が正法眼蔵の中で述べていらっしゃる言葉だ。
自分は彼岸にいかなくても他の人をまずは彼岸に渡してあげなさい。
自分が悟ってもいないのに、他人を彼岸に渡すことはできなかもしれないと思うかもしれないが、その思いを起こすことが大切なのだという。
また自分はそろそろ悟って彼岸にも行けるようにもなっても、自分は彼岸には行かず、他人を彼岸に渡してあげることが大切なのであるともおっしゃっている。
このような自未得度先度他(じみとくどせんどた)の心を起こすこと、それが悟りそのものであるともおっしゃっている。
自分よりも人々の幸せを願うことができるようになれば、それは悟りの世界でもあり、すばらしいことなのである。
 
優しさとは優越感だと言い切った先生がいらしたが、多くの優しさは優越感とか、ゆとりがあってのことだと思う。
でも、そうではない優しさもある。
本当に心根が優しくて、困っている人がいれば助けずにはおれない人がいる。
助けることによって、自分がぼろぼろになっても、助けずにはおれない人がいるものだ。
 
私は、15年ほどまえ、神田川沿いを1時間歩いて通勤していたことがある。
神田川と中央線が交差するところに小さな陸橋があったのだが、その下にダンボールを寝床にしたホームレスがいた。
妙に顔が色白く、澄んだ目をしていたので、ただものではないと思っていたのだが、案の定、見るからにヤクザとわかる男が「オジキ、頼むからアパートかマンションに住んでくれ。お金は何とかする・・・」
どうやら、最近刑務所を出所して、以前の組に帰ることもせず、ホームレスの生活を送っているようであった。
ある日そんなことは知らない、近所のおばちゃんが、「あんた、ごはん食べているの。大丈夫・・・」とダンボールの中の男に声をかけているのである。
そんなに裕福には見えない、ただのおばちゃんが、本当に心配して男に声をかけているのである。私は、その声を聞きながら通りすぎたのだが、人間の確かな優しさに触れたような心温まる思いだった。
こんなおばちゃんがいる限りは、人間も捨てたものではない。
 
自分と他人の区別もなく、ごく自然に他人の幸せを願えるようになれば、それはもう悟りなのだと思う。
自分がぼろぼろになってまで、他人の面倒は見れないと思うかもしれないが、本当に、自未得度先度他(じみとくどせんどた)の気持ちなれたら、その人自身も幸せだと思う。
決してぼろぼろになったりはしない。
その人のまわりに素敵な世界が生まれるに違いない。
決して、ぼろぼろにはならない。
きずつくのは、やはり、自分というものに執着があるからなのだと思う。
自分と他人の区別がつかなくなり、みんなの幸せを願えるようになれば、本人も周囲の人も、それは浄土に住むような幸せということではないだろうか。
 
そのような人が、一人二人と増えていかなければならない。
 
 








 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。
   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。

自未得度先度他(じみとくどせんどた)  2019.9


自未得度先度他(じみとくどせんどた)は、道元禅師が正法眼蔵の中で述べていらっしゃる言葉だ。

自分は彼岸にいかなくても他の人をまずは彼岸に渡してあげなさい。
自分が悟ってもいないのに、他人を彼岸に渡すことはできなかもしれないと思うかもしれないが、その思いを起こすことが大切なのだという。
また自分はそろそろ悟って彼岸にも行けるようにもなっても、自分は彼岸には行かず、他人を彼岸に渡してあげることが大切なのであるともおっしゃっている。
このような自未得度先度他(じみとくどせんどた)の心を起こすこと、それが悟りそのものであるともおっしゃっている。
自分よりも人々の幸せを願うことができるようになれば、それは悟りの世界でもあり、すばらしいことなのである。
 
優しさとは優越感だと言い切った先生がいらしたが、多くの優しさは優越感とか、ゆとりがあってのことだと思う。
でも、そうではない優しさもある。
本当に心根が優しくて、困っている人がいれば助けずにはおれない人がいる。
助けることによって、自分がぼろぼろになっても、助けずにはおれない人がいるものだ。
 
私は、15年ほどまえ、神田川沿いを1時間歩いて通勤していたことがある。
神田川と中央線が交差するところに小さな陸橋があったのだが、その下にダンボールを寝床にしたホームレスがいた。
妙に顔が色白く、澄んだ目をしていたので、ただものではないと思っていたのだが、案の定、見るからにヤクザとわかる男が「オジキ、頼むからアパートかマンションに住んでくれ。お金は何とかする・・・」
どうやら、最近刑務所を出所して、以前の組に帰ることもせず、ホームレスの生活を送っているようであった。
ある日そんなことは知らない、近所のおばちゃんが、「あんた、ごはん食べているの。大丈夫・・・」とダンボールの中の男に声をかけているのである。
そんなに裕福には見えない、ただのおばちゃんが、本当に心配して男に声をかけているのである。私は、その声を聞きながら通りすぎたのだが、人間の確かな優しさに触れたような心温まる思いだった。
こんなおばちゃんがいる限りは、人間も捨てたものではない。
 
自分と他人の区別もなく、ごく自然に他人の幸せを願えるようになれば、それはもう悟りなのだと思う。
自分がぼろぼろになってまで、他人の面倒は見れないと思うかもしれないが、本当に、自未得度先度他(じみとくどせんどた)の気持ちなれたら、その人自身も幸せだと思う。
決してぼろぼろになったりはしない。
その人のまわりに素敵な世界が生まれるに違いない。
決して、ぼろぼろにはならない。
きずつくのは、やはり、自分というものに執着があるからなのだと思う。
自分と他人の区別がつかなくなり、みんなの幸せを願えるようになれば、本人も周囲の人も、それは浄土に住むような幸せということではないだろうか。
 
そのような人が、一人二人と増えていかなければならない。
 
 



 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。
   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。






 2019.08  「火の車 作る大工はなけれども 己がつくりて 己が乗りゆく」
 
 この狂歌というか和歌は一休さんの教えのようです。
 火の車というのは地獄で鬼が引く火ダルマの車で、この世で悪いことをした人間が火の車に乗せられて、うめき苦しむ姿が絵になって伝わっています。
 この世には、火の車はありませんが、人の心が作りだす火の車は、数多くあります。
 一般的には、会社が火の車、家計が火の車といった具合によく使います。
 経済的に大変で、火の車に乗ったような苦しみを味わっているということでしょうか。
 会社も個人も、経済的に行き詰れば、倒産や破産ということです。
 倒産や破産となれば、贅沢もできなければ、名声や名誉も失うでしょうし、経済的にも精神的にも大変ですね。
 ただ、それはそれ、それがどうしたというのでしょう。
 倒産した破産したからといって、飢え死にするようなことはありません。
 貧乏にはなるでしょうが、生活は十分やっていけるでしょう。
 ただし、贅沢して、人から羨ましがられるような生活をしてきた人は、貧乏な生活なんて耐えられないでしょうね。
 非常に苦しい思いをすると思います。いつの間にか、金銭欲、名誉欲名声欲の価値観が正しいと洗脳されてきたのですから・・・。
 もともと貧乏であれば、破産しようがそれほど生活が変わるわけではありませんから、苦しみも少ないでしょうね。
 
 
 良寛さんのように、小さな庵に住み、一汁一菜の生活に十分満足できれば、貧乏なんて何でもないですね。
 盗人に間違われて、生き埋めにされそうになっても、死ぬときは死ぬと、あわてもせず。
 縁にまかせて、仏の道を歩く姿は、すがすがしい。
 また酒も好きでたしなむほどにはお飲みなり、鮒の昆布しめなども喜んでお食べになった。
 遊郭にも托鉢に出かけ、遊女と親しくなってオハジキをして遊ぶ良寛さん。
 これが僧であるということに執着すれば、飲む、打つ、買うなどの世界には近づきもしなかったであろうと思う。
 まるで執着がないから、気のむくまま、縁に任せて、唯一、大きく違うのは仏の教えを大切されたことだろう。
 苦しむのは、執着するからです。
 執着することを離れれば、自由にのびのびと生きれるのではないでしょうか。
 仏(仏陀)は、スッタニパータの中で執着を離れよと、なぜかしつこいまでに語っておられる。
 
 執着のおおもとは、金銭欲であり、名誉名声欲であり、食欲性欲である。
 これらの執着を離れることを、修行していかなければ、本当の安心や自由はないのではないかと思う。
 
 言葉にすれば簡単ですが、実践するのは難しいでしょう。
 ただし、誰もが幸せに生きるにはという問題に対して参考にはなるはずです。


 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。
   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。 







   「絶対肯定の生き方」   2019.7


人間いかに生きるのが良いのか、ということについて我師(紀野一義先生)にお伺いしたことがあります。

この問題については、なかなか結論が出ないということでした。
人それぞれに、その生き方は違うということでしょう。
ただ、人からよく思われようという思いでは駄目だとおっしゃいました。
 人間だから人から良く思われたいと思うのは、あたりまえだ。だが、自分がいいと思ったら、人からどう思われようが、自分がいいと思う生き方をしなければ駄目だとおっしゃいました。
 我師に言われましたので、やはり、身にしみて大切な言葉として覚えています。
 この人から、良く思われたいという気持ちは、何でもないようで、ささいなことのように思われますが、人の行動や生き方を左右しているのかもしれません。
 もっとも、自分がやりたいことも、したいことも、本当は何をしたいのかも、はっきりしないのですから、生き方以前の問題もありそうですが・・・。
 良寛さんは、悟りというものは、その手順があったり、教えたり言葉にすることのできるものではないと言っています。
 やはり、自分なりに、道なき道を歩いて見つけ出すものらしいのです。
 そんな難しいことは、誰にでもできることではありません。
 我師の教えの基本は、誰にでもできる、「肯定」の世界なのかもしれません。
 例えば、片目を失明して嘆き悲しむ人。
 まだ、片目が見えると感謝する人。
 さらには、片目を失って、今まで見えなかったものが見えてきたと、新しい発見をして人生を深める人。
  (確かにこのような経験をした詩人や女優がいました)
 どんな不幸せに見える事も、見方、考え方を変えれば、幸せな気持ちになれます。
 そうはいかないと言ったらそれまでです。
 どうしたらいいんだと言われたら、やはり、想像力、気づき、賢さ・・・ですかね。
 ソフトバンクの孫正義さんの講演を聞いていたら、孫さんは買い物をする喜びがなくなったとのことでした。
 何しろ買おうと思ったらデパートのビルごと買えるのです。
 そう思うと、買い物の喜びがなくなったのだそうです。
 私のように100円ショップで、お気に入りの商品を見つけて、あれも買ってこれも買ってなどといった喜びはなくなったということなのですね。
 私たちは、いつもないものねだりで、自分にあるものを見落としているようです。
 今、見えていないが実はある良いものに、少しは気付かなければなりません。
 肯定、肯定、絶対肯定。
 ええなあ  ええなあ
と、肯定していく生き方。
完全にはできないけれど、できる限り肯定していく生き方。

我師には、この肯定する生き方の大切さも教わったように思います。

※この文章を書いたあと、紀野先生の「法華経を読む」という著書を読んでいたら「娑婆即寂光土」についてのページが最初に目に飛び込んできました。私利私欲のない人々の幸せを願う生き方をしていると、この世がそのままで浄土のように美しい世界に見えるようになるとのことです。

 


 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。
   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。 
 







  「家族の問題について」  2019.6.

最近家族のひきこもり等が起因となる殺人事件が立て続けに発生しています。
多かれ少なかれ家族には、何か社会問題も引き起こすような要素はあるものです。
今はないと思っていても何十年の歳月の中に、犯罪に手をそめてしまうような身内は必ず出現するものかもしれません。
当然、その被害者になることもあります。
私の父親も祖父母に溺愛されたことが原因の一つでしょうが、わがままで内弁慶で酒癖は悪く年柄年中トラブルが発生していました。
私が小学校3年生頃のとき、秋祭りで泥酔した父親を祖父が抱きかかえて家に連れ帰り、真っ暗の土間から座敷に引き上げるとき、
「おまえさえいなければ、この家はうまくいくんだ」と吐き捨てるように言ったことを、なぜかはっきりと覚えています。
当時祖父は、農協の組合長でもあり町議会議員でもあり、ある意味町の有力者であり、こ苦労人でもあり、人格者でもあり、熱心な真宗の門徒でもあったのです。
慈母に敗子(はいし)ありといいますが、祖母も初めての長男であり、私の父のことを特別に溺愛したようです。
そのことが他の兄弟にとっては、納得のいかないことだったかもしれません。
祖母はいつもトシユキがトシユキがと我が父のことを心配していました。
トシユキは利行と書き、仏教用語では他を利するという意味があるようですが、真逆で自分のことばかり考えて我儘な性格でした。
他人からよくしてもらって当たり前、よくしてくれない人間はこの野郎!といった感じで、自分が一番生意気なのに、あいつは生意気だと、よく言っていました。
その父親の息子が私ですから、私も、かなりどうしようもない人間の一人にすぎないと思います。
 
私が、子供の頃のことですから、時効といえば時効なのですが、金属製の容器に入った注射器が縁側の戸袋の隙間から出てきたことがあります。
私はその頃、子供向けの昆虫採集用の注射器を使っていたので、それがほしくて大喜びして祖父に聞いたところ、祖父は激怒しました。
どうやらそれは、父親が覚せい剤を打つのに使用していたのではないかと思います。
祖父にとっては、父は手に負えない、どうしようもない息子ですし、私にとっては、早く死んでくれればいいような父でした。
こんな父親でも、晩年は孫やひ孫に囲まれ、幸せな最期を迎えたことは、一つの事実なのです。
 
50才前半で脳梗塞で倒れ、その後もあいかわらず酒も飲み、危篤状態に陥ったのは、数回以上。
80歳で危篤になり、本当にこれが最後だというので、しぶしぶ広島の実家に帰ったら、意外と元気そうで、あと2、3年以上は生きそうだったので、父親に「何だ、元気そうじゃないか。あと2、3年は生きそうだね」と言ったら、酸素吸入器のマスクをつけた顔で、うん、とうなづいていました。
5分も父親のそばにいなかったと思います。
しかし、父親の目が、あまりにもきれいに澄んでいたので、私は、どきりとしました。
中学1年生のときに、初恋の女性に会って、その目の美しさにドキリとしたように、父親の最期の美しい目にドキリとしました。
私にとっては、その目の美しさが驚きでもあり、父親がおそらくは、美しい気持ちの境地にいたって最期を迎えてくれることが、嬉しくもあり安心でもありました。
親子というもの、家族というものは複雑であり、ややこしくもあり、大変な存在ではあります。
 
仏門に入るときには、各宗派、共通した誓願があるはずです。
その一つが恩愛を断ち切るということです。
恩愛とは親子や家族等の恩や愛情を断ち切るということです。
仏門とは、真理を求める門でもあると思います。
真理は、親子の愛とか、夫婦の愛とかは断ち切らなければ到着できないということでしょう。
本当の幸せ、喜び、ひいていえば、人類の幸せには、親子の愛、夫婦の愛、家族の愛も断ち切ることが必要ということだと思います。
そして断ち切った上、皆が仲良く、わきあいあいと生きていくということではないでしょうか。
 
こんなことは、誰も結論づけては言えないし書けません。
 
わが師が「迷っても悟っても 仏のいのちの中  死んだら また会おうな」と書いてくださったことがあります。
 
どんな間違いを犯そうが、どんな犯罪の被害者になろうが、どんなことが起きようとも、気持ちを切り替えれば、悩みも半減します。
それぞれお悩みの方、どうか気持ちや考えを切り替えて生きてください。
 
 
 

 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。


  2019.5   苦難苦労について(ある殺人事件の被害者の思い)

先日インターネットで、親族が殺害される被害にあった女性の記事を読みました。
多くの人が知っている事件でもあるのですが被害者と名字が違うので、自分から被害者の家族だと名乗らないない限り気づかない人も多いようです。
しかし、今あえてその被害者の家族であることを名乗ろうとしている理由を彼女は述べています。
その事件が起きるまで、被害者も家族も誰もがうらやむような幸せな家族だったのです。
被害者の母は、殺人事件の被害にあったということが、不幸せの象徴のようなものであり、みじめさを感じていたようです。
被害者の姉でもある女性は、母の気持ちに疑問を感じます。
それまで母の期待通り、ある意味、優秀な娘を演じてきて、それなりに幸せであったのですが、母が被害者の子供の一人に障害があり、殺害されるのはその子供だけでよかったのにというような愚痴をこぼしたようです。
このあたりの事情は、私も正確に覚えていないので、間違っていたらおゆるしください。
そのときに、その女性は高齢でもある実の母が間違っていると初めて母に反発したようです。
立派で裕福な家庭に育ち、その過程を守ってきた大切な母の考えにも誤りがあると思ったのです。
というより、心の中で母の考えと決別されたのではないかと思います。
その母も亡くなったことにより、できれば忘れたい殺害事件の被害者として、その事実を隠すことなく、被害者の家族として生きていきたいという決意を最近されたようです。
被害者とは名字も違うのですから、自分から名乗らなければ、人は気づかないものです。
しかし、それは、何かが間違っていると感じられてたのでしょう。
おそらくは、被害者になることがみじめであるとか、障害のある子供がいることが恥ずかしい存在だと思うような母親の考えというか感覚が間違っているとことを強く自覚されたのではないでしょうか。
私は、彼女が立派だと思いました。
でもそおらくは、殺人事件の被害者の家族になったという出来事がなかったら、彼女もごく平凡で幸せそうな人生をすごされたことだと思います。
平凡であること、人よりも裕福であること、優秀であることが決して、人間として幸せとはいえないと思います。
無難に幸せに生きたいと思いますが、人生は必ず、どうしようもない苦難がやってきます。
誰だって死にます。
病気にもなります。
それに匹敵するようなどうしようもない苦難も必ずやってくるものです。
やはり、そんな苦難も乗り切り、笑顔で生きていけるようにならなければなりません。
 
ちなみに、私も、高校1年生の時に祖父がライフル銃で殺害されました。
全国紙の新聞一面にも出ましたし、NHKの全国放送でも流れました。
祖父は製薬会社を退職して倉庫の管理人をしていたのですが、職業が労務者と紹介されたことが妙に腹立たしいような恥ずかしいような思いがしたこともはっきり覚えています。
私とは、その祖父の家に下宿していたのですが名字が違うので担任の教師でも気づかなかったようです。
私もあえて、私の祖父が殺害されたことは、ほとんど話した記憶がありません。
その直後には、両親は離婚すると騒ぎ、私もガソリンスタンドでバイトを始めたり、家出をして警察に保護されたりと色々とありました。
 
その女性は甥にあたる障害児のことも少し話していますが、私の息子は、仮死状態で生まれて3週間、集中治療室にいました。
私にとっては、何とか生きてほしいことだけが願いでした。
脳に障害が出る可能性を聞いていましたが、小学校はダウン症や自閉症の子供さんたちと同じ支援学級です。
もっとも私より頭もいいし性格もいいのですから、あまり心配はしていません。
今は本人の希望で大手パン屋さんに勤めています。
心配なのは、東京芸大に行っている娘ですが、やはりかなり繊細なのか、情緒が安定していません。
ウツだとか死にたいとか言うし、暴れることもありますが、正直あまり気にしていません。
できることはそれなりにしていますが、娘は不満だらけのようです。
今後も、なにが起きるかわかったものではありません。
 
こんなとき、やはり、お釈迦様の教えやすぐれた仏教者や我が師の教えや生きざまは参考になります。
特別に信心とか信仰とかのレベルは必要でもなく、十分、役にたつ教えはあるものです。
艱難辛苦は汝を珠にす。
 
 

 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。

2019.4月   「かわいいヘビの話し」


4月23日で63歳になる。
63年間もあっという間のことだ。
これから先、何年生きるのかしれないが、またあっという間にすぎていくのだろう。
心は10代のころと少しも変っていないように思うが、2年前だか中学校と警察学校の同期会に出席して、多くの初老の顔と顔を見ると、どう考えても歳をとったなと思う。
おまけに私の身体がやけにデカイ。まわりの友が小さく見える。
なにしろ、少年時代青年時代55ロ前後だった私は、80キロ前後になっていた。
この半年少し反省して今は70キロを切っているが、あと5キロはやせようかと思う。
いずれ故郷に帰ったら、マツタケ採りに山に行かねばならない。
30才のとき、65キロだったけど久しぶりにマツタケ採りにに行くと、子供の時に毎日のように登った山がきつくてしようがなかった。
おまけに朝5時前で暗闇の山道を四つん這い状態で登っていたら、目の前にマムシがドクロをまいていた。
獣道になっていて野ネズミでも待ち構えていたのだろうか。
マムシも驚いたたろうが、私も驚いた。
幼少の頃は、ヘビの赤ちゃんをビンに入れてペットのようにして遊んだことがある。
畳の上を、くねくねと動き回る、かわいいおもちゃだった。
それを見て、近所のお姉さんが、ギャーと驚くので不思議でしようがなかった。
赤いマダラ模様もあって、マムシの子だといって近所の大人に谷川に捨てられてしまった。
マムシに噛まれると死ぬこともあるし、ずいぶん痛いのだろうと思うと、やっかいな存在である。
家の藏に住みついているアオダイショウは2メートル近くはあったが、ツバメのヒナを食べてしまうので叔父が棒で叩き殺してしまったことがある。
その死体を谷川に流したのだが、ヘビの身体が大きくて長いものだから小さな堰にひっかかって、何日も白い腹を空に向け、水の流れに揺れていた。
そのヘビにも子供がいたかもしれないし、小さな子ヘビを残して、さぞかし心残りであったかもしれない。
それどころか、ツバメのヒナを食べたのは、別のヘビではなかったかと思うのである。
確かにあのヘビの白い腹は恨めしそうだった。
ちょうど、あの頃、「ヘビ女」、「ヘビ少女」というウメズカズオの怖い漫画があって、夜道を歩くのが怖くてしようがない時代でもあった。
忍者ごっこをして、石垣をよじ登っていると、冷たいコンニャクのようなものが指先に触れた。ヘビが石垣の穴でドクロを巻いていたのだ。
石垣から飛び降りるわけにもいかず、そーと下まで降りたことを覚えている。
いやはや、ヘビにはなぜか、遊びに夢中になっているときに、出会う。
「用心しなさいよ」と教えてくれているのだろうか。
 
良寛さんがヘビを見たら、どうなんだろう。
五合庵などは、近くに川というか谷川があるので、マムシもいればヘビもそれなりに庵の中にも出入りしたかもしれない。
「あれあれ、いらっしゃいませ。こんな何もないところにようこそ」と微笑まれただろうか。
子供などいれば、わざと怖がって見せて、子供達が大笑いするのを喜んで、何度も何度も怖がったふりをして飛び跳ねたのだろうか。
 
仏陀(釈迦)の言葉を集めたスッタニパータという経典にはヘビの章があり、「ヘビが成長して脱皮するように、成長して古い皮は脱ぎ捨てよ」ということが繰り返し繰り返し説かれている。
ヘビという存在は、仏教の教えの中でも引用されることが多い。
私自身はヘビに対する思いが、変遷している。
かわいいヘビが気味悪いヘビになり、どうも好きになれないヘビが、また、この頃なつかしくもあるヘビとなっている。
それは私の勝手で、ヘビはヘビなのである。
多くのことは、その人間の勝手な思いこみで、良くもなればなれば悪くもなるのである。
ヘビを見てにっこり微笑むような人間になれたら、私も一皮むけたかもしれない。
 
 
 
 

 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。
















  2019.3.14  他人を気にしない、自分を気にしない生き方

 

お釈迦様はスッタニパータという経典の中で、しつこいくらい執着を捨てよとおっしゃっています。

完全に執着を捨てることができたものが、悟り、永遠の安心を得ることができるのです。

執着を捨てるということは、なかなかできそうでできないですよ。

しかしできる限り執着しない生き方をするということであれば誰でもできるのです。

 

赤ちゃんや、子供達はこの執着心が少ないですよね。

昨日のこともすっかり忘れて、いや、ついさっきのこともすっかり忘れて、今を生きている。

その瞬間に楽しいことがあれば、思い切り笑い、痛みや悲しみを感ずることがあれば、思い切り泣き叫び生きている。

幼くても、おもちゃに執着したり、おいしい食べ物にも執着したりと、徐々に執着して、それが得られないと不満で苦しくもあろうかとは思いますが、大人に比べれば、はるかに執着心がない。

だから世界中の子供は、どんな環境にいても笑顔が素敵なのでしょう。

 

紀野先生に、人間いかに生きるのがよいのかという質問をして、お話しをしていただいたときに、「人からよく思われようなんて、そんなのは駄目だよ。自分がいいと思えば、それでいいじゃないか。そりゃ誰だって、人からよく思われたいと思うのは、あたりまえだ。しかし、そんなことでは駄目なんだ」とおしゃいました。

 

私の身の回りを見渡しても、人目を気にしすぎて、がんじがらめになっている人が多い。

今の自分に満足できていない人が多すぎる。

それは他人と比較するから、不満が出ることが多いのです。

日々、こうして生きていることだけでも肯定できて満足できれば、これほどの安心と幸せはない。

 

良寛さんというお坊さんは一生、乞食で一間での生活です。

破れ笠に、ボロボロの僧衣を着ていたものだからドロボーと間違われて、生き埋めにされそうになっても、なるがままに身を任せた人です。

藩主から寺を寄進すると言われても断った人です。

子供達とは、時間を忘れて夢中になって遊んだ人です。

なぜ子供が好きかといえば、子供達にはマコトがあるからとこたえています。

書家の書とか、料理人の料理というのは好きでないといっています。

自分が好きなものは好き、嫌いなものは嫌い。

同じ仏門の僧にも友達はいましたが、漢詩の中では痛烈な批判をしています。

しかし、その批判の心も、少しもひきづったようすはない。

良寛さんの漢詩の中には、ただ縁にまかせて生きるのみという言葉があります。

これは執着のない生き方です。

 

私も、できる限り、執着は捨てて、生きていきたい。

自分の命にも執着せず、生きるときは生きる。死ぬときは死ぬ、と思い定めて生きていきたい。

 

 





 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。










    2019.2   野の花の風と陽光

我が師である紀野一義先生の師である朝比奈宗源老師の晩年「紀野さん、生きるってことは大変だな」とおっしゃった。
「その時、風が吹き抜けた。その風をおやじの風という。」と、紀野先生は書き留められた。
おそらく朝比奈老師にも紀野先生にも予期しないような大変な出来事があったのではないかと思う。
それは人知れず、家族に関わることが多いのではないだろうか。
どちらにせよ。
生きるっていうことは、大変なんだと思う。
ましてや平凡な人間が生きることは、さらに大変で、皆さんどうのように困難を乗り切っていらっしゃるのだろうか。
生きていることがつまらなく思えるような日々の中で、先日、ふと、素敵な人にめぐり逢った。
ただ、何気ない会話をしただけなのだが、世間ずれしていない清楚な娘さんだった。
その時、私の心をかすかに風が吹き抜けた。
その風を「野の花の風」と私は書き留めることにする。
 
紀野先生が「風を感じるとき、愛が近づいている」とおっしゃたことがある。
 
おそらく、彼女の人生にも色々な苦難があったに違いないが、それを感じさせない優しい女性だった。
そのような女性に会えたというだけで、まだ、人間捨てたものではないなと思う。
もっともっとそんな人達に会いたいし、そんな人達をしっかりと守ってあげたいなと思う。 
男同士でも、顔を見るだけで、その人間の生きざまはわかるような気がする。
なかなかいい男やいい女にはめぐり逢わない。
翻って、自分はどうなんだ、と思う。
出会えただけで誰かのはげみになるような、そんな人間になりたい。
そんなときに、ふと、思い出すことがある。
中学1年生の12月、なぜか人気のない隣りのクラスにいて、なぜか一人の少女がいて、「野田君、私何もできないけれど、野田君を応援しているから・・・」と言って走り去った少女がいた。
それが誰だったのか、はっきりと思出せないまま、何十年もたち、ある日、ひょっとして、あの時の少女は、あの娘だったのだと思いあたった。
彼女は、ずいぶんとおとなしく、リンゴのように赤いほっぺが印象的だが、まるで目立たない同級生だった。
話したことは一度もなかったはずだ。
私は、生来の正義感の強さから、よけいなことにちょっかいを出して、色んなトラブルをかかえていた。
もううんざりだと思っていたころだ。
「野田君を応援しているから・・・」その時は、その唐突な言葉を、何とも感じず、すっかりと、忘れてしまっていたのに、ふと、数年前、その彼女に会ったとき、あの時の同級生は彼女だったのだと思った。
あいかわらず直接話しをしたことはないが、少し離れたところから彼女の姿を見たとき、あの時の彼女だと思った。
彼女も少し私を見ていたかもしれないが、彼女の姿が、冬なのに春の陽光に包まれていた。
彼女が、今も、「野田君を応援している・・・」かどうかは、わからない。
おそらく彼女自身も、そんなことは忘れているだろう。
何でもない思い出が、ある日、輝きはじめるということもあるのである。
 
思い出も、上手に思い出すと、光輝くものである。






 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

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      2019.1月   「三惚れ(サンボレ)」


 去年の正月は、激しい頭痛で、一瞬このまま脳梗塞か何かで死んでしまうのかと思ったことを、つい先日のことのように思い出す。

 この頃は、なぜか10代20代の頃の友達や、先輩、上司のことを思い出すことが多い。

 私が19歳から24歳までの警察官であった頃、毎月1回署長訓示日があった。

 警備出動や訓練入校などで欠席することも多かったが、30回以上は署長訓示を聞いただろうか。

 でも、その内容はさっぱり覚えていない。

 ところが、たまたま次長(副署長)であった渡辺良文氏の代理の訓示は2回とも覚えているのである。

 その一つが三惚れ(サンボレ)である。

 渡辺次長の実家は広島の山間部にあるのだが、村の駐在所に新しく赴任してきた巡査が、畑で農作業をしていた老婦人に

「こんなに寂しくて不便なところに、よく住んでいらっしゃいますね。」

と声をかけたというのだ。

 その老婦人は、その村で生まれ、その村を愛して、その村で一生を終えていくのである。

 老婦人の心は、その巡査の言葉にひどく傷ついてしまったようである。

 その話しが、人の口から人へと伝わり、渡辺次長の耳にも入る。

 

 そして署長の代理での訓示で、昔から言われている言葉として「三惚れ」の話しをなさった。

 

 一、仕事に惚れる。

 二、土地に惚れる。

 三、女房に惚れる。(人に惚れる)

 

 読んで字のごとく、よけいな説明はしなくてもよいと思う。

 

 人間が生きていく上で大切なことは、そんなに難しい言葉で表現されているわけではない。

 ただ、そのことができているかどうか、時には、自分自身を点検してみることも大切だと思う。

 

 人の心に残る言葉。

 人の心に残る人。

 人の幸せを願っているような人の言葉は、人の心に残りもし、人を動かす力もあるものだ。

 

 渡辺良文次長は、警察署長の後、県警本部の刑事課長を最後に定年退職された。

 今も、ご健在なら90歳前後である。

 私は、時々、渡辺次長の顔と言葉を思い出す。

 仏教の祖師方やすぐれた仏教者の言葉にふれる機会も多いが、渡辺次長の姿と言葉も私の心に刻まれている。

 こんなお話しをすれば、渡辺次長の方はびっくりされるであろうが、人間というものは、見ていないようで見ており、見ているようで見ていないものである。 







 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。
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    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん

















2018.12   転んだらともに転んでニッコリ

スマイル仏壇も経営は大変です。

給料も払えないのに、無給で仕事を手伝ってくれるお嬢さんがいたりで、何とかやっています。

仏壇仏具位牌を販売しながら、仏教にまつわるお話しをさりげなく伝えていく。

そのことが、人々の幸せにつながるのではないかと思っています。

 

その仕事を無給で手伝ってくれているお嬢さんが、面白い話しを聞かせてくれました。

「昨日の夜、5歳と3歳くらいの兄弟が道路を歩いていたんです。

 そうしたら3歳くらいの男の子が前を歩いていて転んだんです。

 5歳くらいのお兄ちゃんがかけよって起こしてあげるのかと思ったら、そのお兄ちゃんも弟の横に

転んで、弟を見て笑っているんです。何なんですかねえ」

 

私は、この話しを聞いたときに、即座に思い出したのは龐居士(ほうこじ)と娘の霊照(りんしょう)の話しです。

龐居士は、全財産を大河の中に捨てて在家のまま出家した居士です。

その龐居士の語録は今も伝わっているそうですが、それとは別に臨済録の中にも登場します。

臨済録に何が書かれていたのか、ほとんどの内容は覚えていないのですが、龐居士と霊照の話しを覚えているのです。

「ある日、龐居士が道で転んだ。すると、娘の霊照は、龐居士のそばに転げこんで、にっこり笑った」

という、短い話しです。

しかし、何となく印象深い話しです。

 

もっと、強烈なのは、龐居士がそろそろ死期を悟ってか月蝕の日に死のうとしたら、

「お父さん、月蝕がはじまったわよ。ちょっと外に出てご覧なさいよ」

と霊照が言って、父親が外に出た間に、霊照はさっさと部屋の中で死んでしまったという。

それで、龐居士は死ぬのを10日ほど延ばして、娘の霊照を弔ってから死んだのだという。

 

これは、1200年前の話しである。

 

しかし日本にも、同じような話しはある。

昭和初期まで生きた村田和上の生きざまも印象深い。

ある日、檀家のものが村田和上の奥さんの姿が最近見えないので、どうなさっているかと聞くと

「あれも、浄土に参らせていただきました」

というのである。

亡骸は、弟子と一緒に山のふもとで荼毘にふしたらしい。

 

その村田和上には娘さんがいて、着物一つも持たせるでなく身一つでお嫁にいくことになった。

生前の奥様が心配して、「嫁に行く準備はいかがしましょうか」と聞いたら、

「ちゃんと準備してある」とのこと。

嫁に行く当日、村田和上から娘さんの与えられたのは1冊の朱色の真宗の勤行集のみだったという。

 

いやはや、すぐれた仏教者というのは、あきれたものである。

とてもまねなどできそうにない。

しかし、なつかしくもあり、ありがたくもあり、やはり、このような仏教者がいなければ仏法は途絶えてしまうに違いない。

 

 

 

 

 

 

今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

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    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。











2018.11   不思議な話し

私は、現在、メーカー直営の仏壇店のお手伝いもしています。
先日親子二人で来店されたお客様がありました。
開店時間前からお待ちだったので、めずらしいなと思っていました。
お話しもトントン拍子に進み、契約書にサインしてもらうときに、お客様が「私の名前は誰も読めない。もし読めたら昼ごはんをご馳走するよ」 とのことでした。
お名前は「豊運」。
確かに見たことのない名前です。
少し考えましたが、何となく「トヨカズ」と言いました。
娘さんとお父さんはきょとんとして、無表情なので、単純な名前を言ってしまったなと思っていましたが、少しの沈黙の後に「どうして読めたんだ。 あんたは、お坊さんか? 豊運という、この名前はお坊さんにつけてもらった名前で、人生80年、誰も、この名前を読めた人間はいない」とのことでした。
よくよくお話しを聞くと、葬式は互助会でやり、仏壇も互助会で購入する予定だったのですが、たまたま見たチラシで、私がいる仏壇店に行ってみようということなったそうです。
そのこと自体が予定外で、仏壇購入を即決したことも予定外、名前を言い当てられたことは想像を絶する思いだったようです。
娘さんもそんないきさつもよくご存じだったので、あいた口がふさがないというか、口をあけたままきょとんとしたままだったのです。
なんだか嬉しそう帰っていかれましたが、さらなるご縁があればおもしろいですね。


誰にも不思議な体験はあるのではないでしょうか。

我師が戦争中につり橋から自転車ごと落ちたけれど無傷だったという話しをされたことがありました。
実は私も、小学校6年生のときに自転車ごと川に転落して無傷だったことがあります。
落ちる瞬間からすぐに頭の中がくるくる回転してしばらく意識を無くしたのではないかと思いますが、弟の叫ぶ声が聞こえてきました。
自転車は前輪がくねくねに曲がり使いものにならなくなるほどだったのに、私はかすり傷一つもなかったのです。
周辺の川に自転車や車で転落した人はほとんど死んでいます。
私は、ひょとしたら、あの時に死んでしまっていて、別な次元を生きているのではないかと思うこともあります。
少し転んでも、かすり傷はできます。かすり傷一つもなかったということが、なおさら不思議なのです。

最近、あのときには、実の母が編んでくれたセーターを着ていたのではないかと思うことがあります。 実の母が編んでくれたとは知らず、私のお気に入りのセーターが一枚あったのです。
あの事故で確か着ていたセーターか上着は擦り切れていたと思います。 母の愛情が私を救ってくれたのかもしれません。

思い出は上手に思い出すことも大切だそうです。


この話をきっかけに、あなたはどんな不思議な話しを思い出すのでしょうか。


今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。













2018.10  水色と石ころ

 

日の暮れた街々のてっぺんには

なぜか水色の空がはてしなく広がっていた

僕はずっと向こうの星に

きれいな娘が住んでいるかもしれないと思うと

だんだんと 小さな点になり

石ころの中の原子のような気になった

そして つつましく生きようと思った

何もかもが僕の心に生きている

僕はせせこましく飛躍することなどよして

心に感じるものだけを愛そう

なぜか 石ころさえもが愛くるしいのだ

 

 

 

この詩のような短い散文は、昭和50年で私が19歳、初夏か初秋の頃書いたものではなかったかと思います。

私は、土曜日の夜、警察学校の生徒のほとんどが外泊許可をとり誰もいなくなった屋上の洗濯干場で夜空を眺めていました。

私の17才から22才くらいまでは、何となく死んでしまいたいような日々でした。

それでも生きたのは、時々、この詩のような思いがあったからだと思う。

(20歳のときに、いつ死ぬかもしれないので、記念にと詩集を1冊作りました。興味ある方はご覧ください)

 

何か美しいもの、その美しいもののためなら命も惜しくないようなもの。

そんなものにめぐり会いたい。

 

本当は、すぐそばにその美しいものがあるのかもしれないのに、たちまち、その美しさの中に醜いものを見てしまう。

おそらくは、相手が悪いのではなく、私自身の心が悪いのだと思う。

だから、自分の心を磨いていくことも大切だと思う。

 

「人生は美しく生きたくそうろう」たしか会津八一先生の言葉だと思う。

紀野先生は、尾骶骨に響くような話を聞きたいし話したいとおっしゃったこともある。

「人はぬくぬくするとろくなことはしない。人は追いつめられると龍が玉をはくようないい仕事をする。」

苦難というものは、一歩間違うと自分の命をたったり、どうしようもなく意地悪な人間を作ったりもするが、その反面何もかもよけいなものはそぎ落として美しい魂を作ってくれることもある。

苦難に出会ったとき、どう生きるか。

苦難も決して悪くはない。

 

「肯定 肯定 絶対肯定」  これはわが師の教えでもある。







今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。









2018.09  「悟りと如来」

 
迷いがあるから、悟りというものがある。

悟りというものがあるから、迷いというものがある。

迷いも悟りもないというのが、求めなければならない本当の世界かもしれない。

白隠禅師は、「生涯で大悟が三度、小悟は数知れず」とおっしゃたそうである。

白隠禅師の悟りというものは一度悟ったら、それでおしまいということではないようである。

道元禅師の場合は、悟ればこうなるだろうとあらかじめ考えていたような悟りは大した悟りではないという。

本当の悟りというものは、まったく想像もつかないようなもので、本当に悟ったら迷いなどというものはなくなると断定していらっしゃる。

悟りにも、レベルの違いとうか、かなり違いがあるようである。

一度悟ったと思っても、それだけではなかなか完成したわけでもないようである。

私も62歳で、あと何年生きられるのか知らないが、どうやら迷いのない悟りを得ることはできずに死んでしまいそうである。

また現代の世の中で、大悟しているもの、迷いなき道元禅師のおっしゃるような悟りの境地にあるものがいらっしゃるかどうかは、はなはだ疑問である。

我師(紀野一義先生)など、ひょっとして、道元禅師のおっしゃるような迷いのなき悟りの境地にあったのかもしれないが、私などの思いがおよぶような世界ではないので定かでない。

ましてや我師はたとえ悟っても、悟った人間らしく生きることはお好きではなかったようである。

良寛も、悟ったからといって、それらしくふるまうのは、人間らしくなくて嫌だと言っている。

たとえ悟ったとしても、人間らしく涙を流し、時には笑うような人間でいたいということであろうかと思う。

良寛の漢詩などを読んでいると良寛にも確かに言葉にできない悟りの世界があったようである。

我師にも、言葉にできない悟りの世界があったのではないかと思うが、やはり、それは今の私にはわからない。

 

我師がお亡くなりなる2、3年前のことだが、良寛の漢詩集にサインを求めたら「迷っても悟っても 仏のいのちの中 死んだらまた会おうな」と書いてくださった。

どうやら迷ってばかりの私も、仏のいのちの中にいるようである。

誰でも、仏の命の中にいるのであろう。

悟りだ迷いだ、善だ悪だといってもたかがしれている。

お釈迦様が仏法を説かれてざっと2500年、地球の歴史や宇宙の歴史の中で、ほんの一瞬を過ごしているのに、なぜこうも小さなことで悩むのか。

でも悩むから人生が味わい深くなるのかもしれない。

 

スマイル仏壇店に二度三度と買い物に来てくれる女性がいた。目があうと、いつもにっこりしてくれる。

ところがある日、彼女が突然涙を流して泣き出したのである。

実は彼女は20代の最愛の息子を亡くしたばかりであることがわかった。

「あなたなら、私の気持ちがわかってくれるかも知れないと思ったら、涙が出てきてしまって・・・」とのことだった。

なぜ、罪のない心優しき若者が20代の若さで亡くならなければならないのか。神や仏もないとは、このことである。なぜ、このような試練がやってくるのだろうか。

私は、そのとき、彼女に何を話したかは覚えてはいない。彼女がまた笑顔を取り戻してくれたことは覚えている。

我師が話されたことがある。幼くして、また若くして死ぬ人は、如来使(にょらいし)だそうだ。仏様の使いで、この世にやってきて、私たちに何かを伝えているのだそうである。

私もずいぶん神や仏を恨んだことがあるが、この世には、仏様の使いとして生まれ、早く死んでいく人もいるのであるということを知り、何となく安心したことを覚えている。

 

如来(仏)は、どこにでもいらっしゃるそうである。

私たちは、如来がいらっしゃることを感じとることができない。

ましてや、如来がどこにでもいらっしゃるなどとは、思えない。

私たちが、如来に見守られているとは、とうてい思えない。

しかし、如来は、母が、我が子を思うような愛で陰ながら私たちを見守っていらっしゃるのではないかと思う。

明治、大正時代の浄土宗の僧であった弁栄聖者の臨終の言葉は「如来はいつもましますけれど、衆生は知らない。弁栄はそのことを知らせるためにやってきた・・・」であった。

 

迷っても悟っても、どんなことがあっても、私たちは、本当は仏のいのちの中、やさしいまなざしに見つめられているのであろうと思う。

 

この仏(如来)の存在を、確かに実感することができれば、それは悟りの一つではないかとも思う。







2018.8  「ご先祖様に思いを馳せて」

父親の一周忌でのことでした。
我一族が、江戸時代に四国から広島の山奥にやってきたことは、祖父から聞いていましたが、
叔母が「おじいさんに、我が家は村上水軍と縁があると聞いたことがある。」と言うのです。
私は、一瞬、どきりとしました。
私が、警察官だったころ、初めての赴任地に因島を希望して、2年間勤めたことがあるのです。
警察学校の学生の頃、県警本部長との対談で、何となく因島という島に興味が湧いてきて「青い海と青い空が好きです。島で勤務したい」と語ったのです。
それが功を奏したのか、6年ぶりの新人警察官として因島に赴任することができました。
因島は、村上水軍の居城があった島です。
その水軍の家老職を務めていた子孫の村上さんという美しい女性が、警察署の安全協会の職員として勤めていました。
物静かで優しく美しく、まさにお姫様という女性でした。
因島に美人が多かったことは印象的です。
その村上さんも1年後には大阪に嫁いでいかれましたが、今もお元気でしょうか。
 
父親の一周忌が終わって、間がない、ある日の日曜日の早朝のことです。
新高円寺の駅近くにあったスマイル仏壇店に若い女性が一人でひょこりと入ってきました。
仏壇店を経営していると、まずはありえないことです。
どうやら祖父が亡くなって、祖父の供養をしたいという思いもあって、彼女自身も通りがかりにふらりと入ってきたようです。
小さな仏壇を見つけて気にいってくれたようで、仏壇と仏具一式を購入してくれることになりました。
契約書を書いていると、村上という姓なので、私の先祖が村上水軍と縁があるらしいという話をしました。
彼女の実家は新潟なので、村上水軍とは関係はないだろうということでその話は終わりました。
彼女は、大学生であり、劇団員であり、司法試験も目指しているという美しい女性でした。
彼女を見送って、10分位たったでしょうか。
彼女が、店に舞い戻ってきました。
「少し気になって、お父さんに電話したら、先祖は瀬戸内からやってきたと聞いている。たぶん村上水軍だったのだろうと言っていました。
お店の人によろしく伝えてくださいとのことです」
と言うのです。
 
本当に不思議ですね。
それだけではないのです。我師である紀野一義先生もご先祖が村上水軍とご縁があり、子供時分に村上姓の子供達にお世話になったことをお話しになったことがあります。
また、私の故郷は栗栖(クリス)という姓が日本で一番多い地域なのですが、数年前にわかったのですが、この栗栖の先祖は紀一族なのです。
紀野先生が旧制中学の頃、剣道部に栗栖君という同級生がいて、必ず朝出会うと「紀野さん、おはようございます」と丁寧に挨拶をしていたという話も覚えています。
栗栖君の先祖が紀一族であったことを、栗栖君はおそらくは知らなかったでしょう。
私の実家の親戚はほとんどが栗栖ですが、妙なところで、紀野先生とは深いご縁もあったのだと思います。
 
もっと不思議なことは、たくさんあるのですが、長くなるので、このくらいでやめておきます。
 
お盆の時期、ご先祖様のことに思いをはせて見るのもよろしいかと思います。
長い歴史の中では、どの家のご先祖様もいい時もあれば悪いときもあり、立派な人もいれば、恥ずかしくなるような人もいるでしょう。
そういったこともひっくるめて、ご先祖様には、感謝したいものです。
目には見えず、科学的にはわからない世界ですが、色々な縁があり、出会えただけでも、嬉しくなるようなご縁もあるものです。


因島の観光ルートとオススメスポット



 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。





「貧乏の中での幸せ」   2018年7月

世の中、どうもお金のあるないで幸せ不幸せが決まってしまうようで、困ったものだ。
しかし、最近は葬儀も立派な方々でも家族葬が多くなり、何百万円の葬儀費用が数十万円でも済むようになり、仏壇にしても数万円で立派な仏壇が入手できるようになった。
少しずつ、お金に対する価値観も変化してきているのかもしれない。

唐の時代に龐居士(ほうこじ)という方がいらしたのですが、この方は、非常に裕福な家庭に生まれながら、その財産をを大きな河の中に沈めてから在家のまま仏門に入られました。
石頭和尚や馬祖について僧にはならず出家はせずに居士として修行なさり、それぞれの祖師方に劣らぬ悟りを得られたようです。
その娘の霊照も仏道を究めていたらしく、よく父を助け、籠を作り売って生活をしていたようです。
その生活は貧乏ではあったでしょうが、満ち足りたものであったろうと思います。
 
財産を河の中に沈めるにあたり、周囲は、どうせならその財産を世の中のために使えばよいと意見をしたようですが、龐居士(ほうこじ)は、財産は人のためにならないと言ったようです。
子孫に美田を残さずという諺もありますが、財産やお金は、よくよく注意しなければならないのだと思います。
 
お釈迦様も王子の地位を捨てて、一生乞食の生活をなさいました。
私の好きな良寛さんも名主の家に生まれながら、出家してからは一生乞食の生活でした。
その乞食の生活の中でこそ、最高の喜びと幸せを見出すことができるということであろうかと思います。
 
つい私たちは、お金お金と、お金を求めます。
今、貧しい人、お金のない人は本当は幸せなのかもしれません。
富めることよりも貧乏の中でこそ、本当の幸せを掴むことができるのだろうと思います。
なかなか俗人は、乞食のような生活には満足できないというでしょう。
 
しかし、悟ということが、そんなに難しいことであるのであれば、衆生は救われません。
世界中の子供達の多くは、お金のある無いにかかわらず、はちきれんばかりの笑顔で楽しそうにしていることがありますね。
悲しいことや嫌なことがあっても、「泣いたカラスがもう笑った」式で、元気よく生きています。
そんな子供達に慰められている親御さんも多いのではないでしょうか。
明るくすがすがしく生きるヒントは子供達の生き方にあるのかもしれません。
 
人の幸せは、そんなに難しいことではないはずです。
たまには、子供の頃の幸せのひと時を思い出して、今の自分にかけているものに思いをはせて見ることもいいかもしれない。





「世界を平和にする子供たちの笑顔」より



 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
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    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。






2018年6月  ナムアミダブツと郷土の先輩(大瀛和上)について


仏教の基本は衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)で、すべての生きとし生けるものを救うということである。
阿弥陀如来は、ナムアミダブツとアミダ如来の名前を呼ぶものをすべて救ってやりという誓願のもとに悟りを開かれた。
釈迦如来も大日如来等の如来の願いも衆生無辺誓願度であり、仏教徒の一番大切な誓いも衆生無辺誓願度である。
思えば世界平和に一番寄与できそうな教えである。
 
しかし、現実は生易しくはない。
 
江戸時代の1800年前後のことであるが、北陸の真宗の門徒(一向宗)の中に、仏の衆生無辺誓願度の誓願があるのであるから、人々はすでに救われている。
仏が衆生をすべて救うという誓願のもとにすでに悟りを開かれたのだから、その事実さえ知っていれば、念仏も必要ないという教えが広まったようである。
私も、この教えに大いに納得するものでもある。
ところが、京都の真宗の本山である本願寺では、この教えは間違っている、身口意を正して念仏しなければならないと主張した。
姿勢を正して、よくよく仏教を勉強して、心をこめて念仏しなければならないということであろうか。
あたりまえといえば、あたりまえのようであるが、実は、これは、阿弥陀如来の教えや親鸞聖人の教えからは、大きくかけ離れているのではないだろうか。
この本山である本願寺の教えは、間違っているという地方の僧達がいた。
その代表は大瀛和上(だいえい、1759年1月30日宝暦9年1月2日) - 1804年6月11日文化元年5月4日))である。
大瀛和上の説がどのようなものであったかは知らない。
この問題は幕府寺社奉行の裁定となり、大瀛和上の死後2年後に大瀛和上の説が正しいということに決着したようである。
その間、大瀛和上は、もともと病弱でしたから、江戸での生活、寺社奉行の取り調べも大変であったろうと思う。
 
大瀛和上の説は知らないので私の想像に過ぎないが、阿弥陀如来も親鸞聖人も、仏教を勉強しなさいとはいっていない、姿勢を正して念仏しなさいとはいっていない、信心を深めて精神誠意念仏しなさいとは言っていない。
ただアミダの名前を呼びなさい、ナムアミダブツとアミダ如来を呼びなさい、念仏しなさいと言っているだけである。
衆生をすべて救うのに、衆生のすべてができないようなことを、阿弥陀如来も親鸞聖人もおっしゃるはずがない。
親鸞聖人でさえ、自然に心から阿弥陀如来の名前を呼ぶことができるようになったのは晩年のことであることは真宗の人なら多く知っていることである。
ましてや、普通の人間が阿弥陀如来の教えをよく理解して、姿勢を正して、心をこめてナムアミダブツとはなかなか言えない。
ただナムアミダブツと言うことなら、多くの人が言える。
本来、南無阿弥陀仏の教えの一番大切なことは、「私の名前を呼ぶものをすべて救いたいという誓願の上に悟りを開かれた阿弥陀如来の名前を呼び、助けを願うことである。」
親鸞聖人の教えもただそれだけのことであると思う。
「ナムアミダブツ」と阿弥陀如来を呼ぶだけで衆生は救われるのである。
そのことが、とてもありがたい。
特定の宗派に属さない私であるが、いざとなれば「ナムアミダブツ」である。
ましてや、私の大好きな良寛さんも曹洞宗の僧であったのだが和歌に歌っている「良寛に 辞世あるかと 人とわば 南無阿弥陀仏と いうとこたえよ」
 
大瀛和上の生まれは、広島県の山奥の私の実家の隣村の筒賀村です。
現在は安芸太田町となっていますが明治以降も長く村民税も払わなくて済んだという裕福な村でもありました。
北陸もそういうところがあるようですが、真宗の門徒が協力して理想的な自治体を作っていたのです。
 
明日6月11日は、大瀛和上の命日です。
筑地本願寺の正門の右側に親鸞聖人の像があり、その手前の二つ目が大瀛和上の墓です。
最近知った故郷の大瀛和上ですが、ありがたくも妙に懐かしい人です。


 

今田三哲著 若き大瀛の詩集「竿水漫録」 大瀛事績研究会発行



 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
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    一、真理をもとめてひとすじに生きん。










2018年5月   お釈迦様の最高の喜び・・・・

秦の始皇帝は、中国を統一した初めての皇帝で、栄華をきわめたことは世界有数ではないでしょうか。
しかし、どれだけ栄華をきわめようが、死をまぬがれることはできません。
不老長寿の薬を求めて、始皇帝の命をうけた徐福が日本にもやってきたようです。
一人死ぬのが怖かったのでしょうか、臣下も殉死させ広大の陵墓も築きました。
それで死後、始皇帝は少しでも幸せになれたのでしょうか。
どう考えても、あの世があったとしても、地獄に落ちるか、生まれ変わってネズミにでもなったかもしれません。
まあ、いずれは始皇帝もいずれかの仏様がお救いくださるのであろうとは思います。
 
普通の人間は、権力を手にすると、更なる権力を欲します。
財を得ると、更なる財を欲します。
名声を得ると、更なる名声を求めます。
不思議なもので、なかなか満足で終わらない。
権力や名声や富を得て、結局何になるのであろうとは、なかなか人間は考えないようです。
 
お釈迦様は老いることもなければ死ぬこともない不老不死にいたる道についても述べています。
スッタニパータという経典には、繰り返し、不老不死に至る方法について述べられています。
難しい教義や理論ではありません。
簡単に言えば、あらゆる欲を起こさないこと、執着しないこと、これがきちんとできれば、その人は、老いることもない、また死ぬこともない境地にいたるというのです。
確かに、お釈迦様は、シャカ族の王子の地位を捨て、親や妻や子供も捨て出家しました。
その一生は、様々な欲にとらわれることなく、何事にも執着はなかったようです。
衣1枚とその日の食事さえあれば足りる生活です。
おまけに苦行も否定されました。
私たちは何でも、苦しい修行や努力をしなければ、ものごとが成就しないように思います。
苦しい修行や努力によってのみ、幸せを得ることができるように思います。
しかし、そうではないということです。
何事も執着すると苦しみになります。
執着や欲はよくないと、お釈迦様は繰り返しおっしゃっているのです。
しかし、まるで欲や執着がないということは、なかなか難しそうです。
ここは、できる限り、欲や執着を捨てることが、喜びに満ちた、すばらしい幸せにいたるのではないかと書いておきます。
 
お釈迦様には、欲がなかったのかというと、お釈迦様の晩年でしょうか、弟子のアナンに「私にも欲がある。最高の喜びを求めている」とおっしゃたそうです。
最高の喜びとは何でしょうね。
お釈迦様の最高の喜び・・・・。
こつこつ生きながら、喜びを感じる人生を送りたいものです。
 
 
 
 社会福祉法人 「かれん」の作品ぺーじより   http://karen.or.jp/?page_id=50








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花祭り(4月8日はお釈迦様の誕生日)の思い出        2018年4月


私が小学校に入学する前のことだろうか、地元のお寺で花祭りがあったことを覚えている。

大人の背丈もある白い像に館がのせてあり、おそらくその中に、お釈迦様の像があったのだろう。

甘酒やお菓子をいただいたように思う。

その後、そのお寺でも、どこのお寺でも花祭りらしい催しは見なくなった。

私の地元のお寺さんの住職は郡内でも一番えらいお坊様だったのだと、ある教師が話しているのを聞いたことがある。

私には、そのご住職の記憶がない。しかし、そのご住職に、そっと見守られていたのかもしれないと思ったりもする。

私の幼少期には、ほのぼのとした大自然と大人たちの笑顔に包まれた思い出がいっぱいだ。

そのご住職が若くしてお亡くなりなった頃から、村は急激にさびれ、ただの村になったように思う。

もっともわが村(現在は広域合併で町)は、インターチェンジができてホームセンターもあればJA、高速バス乗場、レストラン、コンビニができている。

それでも、がらんとしてうらさびしい。

無骨な私の祖父と祖母はお寺で聴聞会があると出かけていたが、そのようなことが老人のパワーや村のパワーにもなっていたのではないだろうか。

嫌なことやつらいことがあっても、仏様におまかせして笑顔をとりもどす。

村には長老のような存在もそこかしこにいて、悩み苦しみを聞いてくれる。

話しを聞いてくれるだけで、心は少し軽くなるものだ。

 

私は、その長老のような存在になろうかと思うのであるが、これがなかなか、そうは簡単にはいかない。

お客様や知人が、人生相談で電話をかけてくることもあるのだが、いらいらしてぞんざいに対応することも多い。

ただ話しを聞いてあげるだけで良いのだが、それがなかなかできない。

つい叱りとばしたくなるから困ったものである。

お客様や知人も、私の怒りやいらだちを肌で感じるのだろう。しばらくは電話をしてこない。

 

それでも、以前にくらべれば、お客様も知人もかなりしっかりしてきたなと思うことも多い。

それがせめてもの喜びでありなぐさめだ。


2016年6月  ブラジルのクリチバ市での恒例の花祭り  サンパウロ新聞より (ブラジルは日系の移民の人が多い)

 

 

 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
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仏は、心を耕す    2018年3月


ずいぶん前のことになるが、中村元先生の「ブッダのことば」(スッタニパータ)を読んだことがある。
その本の最初のあたりに書かれている言葉である。
ブッダがバラモンである農夫に食を乞うたところ、「私たちは田畑を耕して、食を得ている。働かないものに、食を与えることはできない」と拒絶された。
ブッダは「私も働いている。私は心を耕す者である」と応えている。
そのバラモンは、ブッダのその言葉を聞いてたちまちにブッダに帰依したはずである。
 
なるほど心を耕さなければ、いくら仏性があっても、その仏性は芽を出さない。
とうぜん仏教の経典は、その心をどう耕すかということは書かれている。
経典も多いから、どの経典がよいのかさっぱりわからない。
しかし、どの経典もすばらしい教えであるのだから、特にこの経典が一番よくて、この経典は駄目だというようなとらえ方はしてはいけないと、良寛さんは言っている。
ブッダの教えの一つ一つがすばらしく、学ぶべきことは甚大である。
宗派も様々で、新興宗教になると、その実態が不明なところが多い。
何を信じていいのか、さまよっている人も多いことかと思う。
しかし、道を求める気持ち、真理をもとめる気持ちが強くしっかりとあれば、いつかは良き師に巡り合う日がくるに違いない。
やはり、切に思い強く願う気持ちが大切でもあるようだ。
人間として間違ったことを切に思うと苦悩の始まりだが、人間として正しいことを切に思うと喜びとなる。
だから苦悩している人は、何か心の持ち方に間違った何かがあるはずだ。
一番の原因は、利己的な欲にからまれているのではないかということである。
えらそうなことを、書きしるしているが、自分の心というものをしっかりと見つめることの大切さを感じたのは、ごく最近のことである。
私の62年の人生を振り返ったとき、あまりにも自分の心というものに無頓着すぎて、何度も何度も同じ苦悩を繰り返してきたように思う。
はっきり言って、苦悩は心の問題である。
身体的な苦痛さえ、心の問題であるといえるかもしれない。
だから、この心を耕して、安心と幸福感に満ちた人にならなければならない。
仏教は、心を耕し、人々を幸せにしてくれる、すばらしい教えに違いないという思いは、日増しに強くなっている。





 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

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皆、いずれは、極楽浄土(天国)に生まれる      2018年2月



仏教各宗派が共通して称える四弘誓願の一番最初にある誓願は衆生無辺誓願度である。
すべての人々を悟りの世界に導き、幸せにしようとの願いである。
阿弥陀如来も釈迦如来もこの誓願のもとに悟りを開かれた。
これから現れる弥勒如来は、すべての人々が悟ったあとに現れる如来だと聞いたことがある。
いずれにせよ、人々はいずれは救われ、悟り、幸せになる存在であるようである。
この現実世界を見ると、そんなことはありえないように思える。
すべての人々に仏性があり、すべての人々が悟るなんていうことは信じがたい。
ひょっとすると、死んだ後のあの世は悟りの世界であり、誰もが極楽浄土や天国に生まれるというのであれば、なるほどと思わないわけでもない。
父親というものは子供に厳しいものである。
くそオヤジと思っている子供も多いことだろう。
しかし父親は子供の成長を願って厳しくも叱るのである。
甘いだけの父親では、子供は立派に成長しない。
キリスト教の信者が、神のことを父上とかお父様と呼んでいるのを聞いたことがある。
キリスト教では、善悪がはっきりしており、人々は裁かれる立場にあり全員が救われるという教えはないようである。
しかし「神とは愛である」ともいう。
ならば、本当は、すべての人々を悔い改めさせようとしているだけで、本心は衆生無辺誓願度ではないかと思う。
仏教には本来善悪がなく、すべては縁によって生じ、まるで実態というものがないかのようである。
円覚寺の管長でもあった朝比奈宗源老師はキリスト教も仏教の中の一つというお考えであったようである。
仏教でも極楽と地獄があり、悪いことをすれば地獄に行くとは教える。
でも一つ、つっこんで仏教の教えを聞くと、善も悪もないという。
朝比奈老師は世界の宗教者が世界平和のために協力することに力を尽くされた方でもある。
朝比奈老師は「人は、仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に命をひきとる」とおっしゃたようだ。
仏心とは愛とか慈悲そのものではないだろうか。
私は朝比奈老師におめにかかったことはない。
写真で知る限りでは、無骨でびくともしないような面構えである。
その朝比奈老師が、晩年わが師である紀野先生に「紀野さん、生きるってことは大変だな」とおっしゃたことがあるそうである。
どうやら晩年の朝比奈老師にも予期せぬ大変なこともあったようである。
この世にある限りは、病気にもなり愛する人も失い事件事故にも遭遇することもある。
生身の人間であれば、悲しみや苦しみをいつまでも経験することになる。
そこで人は忍耐と勇気を培い、あとのどうしようもない部分は神や仏にまかせるしかないのではないだろうか。


    朝比奈宗源老師
 
私は、天国や極楽は退屈でしようがないと思うのであるが、疲れたときには、どうせあの世に行くのだから、もうしばらくの辛抱だと思うようにしようと思うのである。
おまえのような人間は、極楽浄土などには行けないという人もいるだろう。
それは人それぞれである。
私は、いずれ人は皆、極楽浄土に生まれると思うのである。
 
あの砂漠でさえ何年かに一度豪雨に見舞われると2ヶ月たらず、あたり一面ピンクの花で埋め尽くされることがあるのである。
砂漠のどこに花の種があったというのであろうか。
人間のどこに仏性があるというのであろうか。
やはり、ないようでもあるのである。
 
いつか、この世が、たちまち極楽浄土となるやも知れず・・・・。

   2017年8月 南米チリのアタカマ砂漠に咲いた花




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誰しもいずれは死んでいく   2018年1月


テレビアニメでもおなじみの一休さん(一休宗純)は、正月早々、杖にしゃれこうべ(ドクロ)をつけて「御用心。御用心。」と大声で街中を練り歩かれたそうである。
幸せな人も不幸せな人も、金持ちも貧乏人もいずれは死んでいく。
しかし、この死について普段考えることは少ない。
死ぬ直前で、死について考えても間に合わない。
私自身は、死ぬときは死ぬのがいいと、いつ死んでもいいという覚悟はしているつもりだが、いざとなればどうなるのかわかったものではない。
1月8日は朝から激しい頭痛と吐き気におそわれ、熱もないのに汗びっしょりとなった。
どうもおかしいと思って血圧を測ったら、下が100上が190と経験したことのない高い数値だった。
この1年血圧はまったく正常値だったし原因不明である。
脳の血管が切れて出血でもしているのかもしれなかったし、心臓もプツンと止まるかもしれなかった。
このまま死ぬのかもしれないと思ったのだが、さほど死に対する恐怖感はなかった。
1日寝ていたら、何とか血圧もさがり頭痛もおさまった。
そろそろ身辺整理もしなければならないのかもしれない。
まだ娘が大学生なので、一番お金がかかる時期なのだが、最近同居している娘にいざとなれば働きながら大学に行くように話をした。
娘は娘で悩みと大きな不安を抱えていたようで、親が離婚したあとにひどく心が傷ついたことがあったのに、父親の私がまるで理解してくれなかったと泣かれてしまった。
娘は東京芸大の学生である。裕福な家庭の子女が多いことと思う。また、経済的な援助なくしては、芸術に専念もできないであろう。
まるで無頓着で貧乏な私は、今まで娘の繊細な心を傷つけて、娘は泣き叫びたいことも多くあったのであろう。
でも、苦しみ悲しみも貴重な経験ではないだろうか。
いつか、おとうさんありがとう。おとうさんの生き方が、今の私を作ってくれたと感謝されるような日が来ることを祈っている。
 
 
 
「人間いかに生きていくか」という問題は、なかなか結論が出ないようである。
過去現在未来の如来が、すべての存在の幸せを願って悟りを開かれたのだから、すでに私たちすべての存在は救われているのではないだろうか。
その思いは、だんだんと深くなっている。
衆生本来仏なり。
娑婆即寂光土。
大地をこすれば黄金となり、大海をかけば甘露となる。
 
衆生は、如来がいらっしゃることを知らない。
本来衆生が仏であることを知らない。
私も、その衆生の一人である。
 
どうやら、悟りとか幸せは、自未得度先度他の心かけが大切なのではないかと思うようになった。
自分の幸せより他人の幸せを心から思えるようになったら、そこには美しい世界が開けてくるのではないだろうか。
新年早々、わけのわからぬことを書いてしまったが、今しばらく生きるのであれば、心の底から大勢の人の幸せを願える人になりたいものだ。



 

四谷の安禅寺での例会の後で(紀野先生84歳頃)

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紀野一義先生について   2017年12月

私が初めて紀野一義先生を知ったのは29才の秋だった。
その年から5年前後も松江市で仕事をすることになったのだが、その会社の書棚に紀野先生の「般若心経を読む」という講談社現代新書があった。
その新書版のカバーの紀野先生の顔写真を見て「なんて頑固一徹な顔なんだろう。この人は嘘などつかないだろうな」と思った。
その印象は強くて、どんな人なのだろうかと興味深く何冊かの本を読み「法華経の風光」というカセットテープの講話も何度も聞いたものだ。
いまだに「般若心経を読む」「法華経を読む」等の著書数十冊を繰り返し読み、「正法眼蔵に学ぶ」「水と風に聞く」というCDの講話を繰り返し聞いている。
ものぐさな私が、何度も何度も読み聞くということに、私ながら、そんな私に驚いている。
40才になる前に、狛江市のご自宅を訪ねたが、あいにく先生もご家族の方も留守だった。
そして45才の頃、インターネットのおかげで紀野先生が、今も池上本門寺で講座を開いていらっしゃることがわかり、会社を早退して出席した。
半年に一度の出席だったであろうかと思う。すると紀野先生が講話の中で「私も一生懸命話しをしている。毎回出席しなさい」とおっしゃった。
私に言われているようで、それで私は、毎月、池上本門寺に通うことになった。
しばらくして先生のそばを通りかかると「おう、あんたか。百騎の会があるので、日曜日にいらっしゃい」ということになり、新入りの私が、いきなり百騎の会に出席することになった。
そのうち先生が主幹の真如会の例会、谷中の全生庵、鎌倉の大仏、京都の例会と、私は、いつのまにか先生のお伴をするようになっていた。
先生はおっしゃった「本を読むだけでは駄目だ。その人の話し直接会って聞かなければいけない。聞くなら鼻毛が見えるくらい、真ん前で聞きなさい。一緒に食事をすることも大切だ」
私は、いつも最前列で話しを聞き、先生と何度も二人きりの食事もした。
先生は、ある意味何もかも見せてくださったようだ。
先生の著書は百冊以上もある。30冊程度は私も所有しているが、今でも10冊程度は、引っ越しの荷物から引っ張り出しては、ありがたくも繰り返し繰り返し読んでいる。
何度読んでも、新しい気づきがある。
おそらく一生かかっても、先生の教えの百分の一も理解できないであろう。
しかし、私自身は、その教えの片りんに触れただけで、ずいぶんとたくましくなった。
真っ暗闇の中を右往左往していたような私の人生は、少し輝きはじめた。
おそらく今後も、どうしようもないような苦難に出会い、右往左往することがあろうかとは思う。
しかし、何とか、笑顔をとりもどして生きていけるのではないかと思う。
 
 
先月、久しぶりに先生の著書が復刊された。
その本を書店で見つけた、同い歳の坊さんが、感激して電話してきた。
最初何のことだかわからなかったが、大法輪閣という出版社から「法華経を読む」という本が復刊されたのだ。
どうしても先生の著書を広めたいという希望の光を感じてうれしく思っている。
 

2017年11月10日に復刊として初版が大法輪閣から出版された。



当時、講談社学術新書のカバーに掲載の先生の顔写真
先生60歳前後、今の新書には顔写真は掲載されていない


今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

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    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
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良寛さんについて(補足)     2017年11月


先月、良寛さんについて書いたところ「良寛は、生活の糧はどのようにして得ていたのか」等、質問を受けました。
良寛さんは名主の家の長男坊として生まれています。一族は大名に金を貸すほどの豪商もいました。
良寛は名主見習役をしていたときに出家しています。
今でもそうでしょうが、誰でもが出家してお坊様になれるわけではありません。
貧乏人は出家することもままならないところがあろうかと思います。
このような裕福な出自を肯定的に思う人、否定的に思う人、反発する人、人様々のようです。
良寛さん自身は、自分のことはほとんど人には語りませんが、逸話や漢詩等を通じて、良寛さんの生活を想像することはできます。
 
越後に帰ってからは、海辺の船小屋、五合庵、乙子神社、木村家の木小屋で一生を終えています。
長岡藩主から寺を寄進するという話も断っていますし、寺に住んで生活はしていません。
五合庵も乙子神社も国上山の山中にあり、簡単には訪問できる場所ではありません。
良寛自身も晩年は腰が弱り五合庵から、少し下った乙子神社に住みかを変えています。
最晩年は、木村家の木小屋を改築した小屋で一生を終えています。
この小屋は民家の中にありますし、すでに良寛さんの名声は広まっていましたから多くの人が訪問したと思います。
たぶんこの頃だと思うのですが、良寛のお世話をしていた若者に「ひとがくるとうるさくてかなわない だが おまえのことではない」と書き与えています。
 
ところで、衣食住はどうしていたのかということですが、ぼろぼろの墨染めの衣一着か二着、冬は綿入れ、布団、筆と墨とすずりと紙、書物数冊、托鉢の鉢と頭陀袋と手まりを所有してというところでしょうか。
良寛さんが、みすぼろしい姿なので盗人と間違えられて生き埋めになりそうになったこともあります。
漢詩の中にも、ぼろぼろの墨染の衣、空腹を感じる日々も多いことが書かれています。
こんなときにも、良寛は幸せだと書いています。
「ぼろをまとい貧しく空腹でもあるが、自分にはお釈迦様と二十八代続いた祖師方、達磨大師に始まる禅宗六祖までの祖師方が身近に友のようにいらっしゃる」という詩の一文があります。
考えてみれば、釈迦如来も、達磨大師も六祖慧能も、衣1枚をまとい、時には空腹を感じるような質素な生活でした。
 
五合庵に住んでいたころは、「翁がときおり訪ねてくるだけだ」というような詩の一文もありますから、良寛のことを心配して、時々、食べ物を届ける人たちもあったことと思います。
 
晩年のことと思いますが、味噌がほしいとか、いんきんの塗薬がほしいとか、仲のよかった庄屋に手紙を書いています。
贅沢はほとんどしていませんが、お酒もお好きでたまには飲んでいらっしゃいますし、盆おどりも大好きでいらしたようです。
清貧ではありますが、自然な生活を感じます。
 
良寛は、誰に対してもおそらくは仏教(仏法)を、言葉ではほとんど語らなかたように思います。
しかし、その良寛の姿、存在が人々の心に何か美しいものを伝えたのだと思います。
 
残念なのは、良寛の悟りの世界がよくわからないし、それは良寛自身も口に出して言えば、壊れてしまいそうなものだということです。
玉島円通寺の国仙和尚から印可されても、円通寺の住職にはならなかったのはなぜでしょうか。
国仙和尚は、住職になろうとしない良寛を思いやったのでしょうか。
わざわざ歴代の住職が住んでいた庵と畑を良寛に与えるという文書を残しています。
しかし良寛は国仙和尚が亡くなると、いずこえともなく旅に出て、その後10年間位はまったく消息不明です。
国仙和尚の跡を継いだ円通寺の住職は、後に曹洞宗本山である永平寺の住職になっています。
その頃、曹洞宗は総持寺と永平寺で、曹洞宗の本山がどちらであるかということで、幕府に訴えを起こすほどの争いをしています。
永平寺に良寛についての記録が残ってれば、興味深いのですが・・・。
 
良寛の漢詩を読むと「世に名僧といわれる僧に会って、問答してみるとまだまだである」という一文がある。
そのほかにも、僧に対する厳しい批判もある。
いつの世も同じだと思わずにはいれない。
だが、良寛には有願という僧である友もいた。
亀田鵬斎は有名な書家であり儒学者であるが、良寛に意気投合しすっかり感化された。
江戸の川柳として「鵬斎は越後帰りで字がくねり」と流行ったらしい。


 中央公論美術出版 良寛の書より









良寛さんについて   2017年10月


昭和30年代、良寛さんは、私が小学2、3年生の国語の教科書に「たけのこ」や「かくれんぼ」のお話しが掲載されていた。
子供達とかくれんぼして、隠れた納屋で寝込んでしまったら夜にになっていたというお話しと、
たけのこが生えてきたので、縁側の板をとってやり、軒下の板もとってやったというお話しである。
「天上大風」の子供が書いたような書も掲載されていた。
私と同年代の人は、そのことを覚えている人も多いのではないだろうか。

良寛さんは、子供が好きで心やさしきお坊様と記憶していた。
私が二十歳のとき、たまたま書店で良寛さんの漢詩の詩集を読んだとき、私はどきりとして、その詩集を胸に抱きしめた。
「私は子供らと手まりをつく。村人たちは、そんな私を笑って通りすぎて行く。村人には、私の、この気持がわかるだろうか。私は、ただ手まりをつくだけ。ひいふうみいよういいむうなな・・・と」
(これは私の意訳)私は、良寛の孤独を感じたようだった。
お金のない私が、良寛の分厚い漢詩集を買い求めて、早40年、その詩集は、今でも、ときおり、私の枕元に並ぶ。
東京の中野坂上のふもとにある古くからの曹洞宗の寺の前を歩いていた時、良寛さんも、この道を歩いたかも知れないと思ったとき、風が私の身体を優しく過ぎ去っていった。
出雲崎、柏崎、国上山と良寛さんの歩いた道を歩き、木村家の近所の浄土真宗のお寺で良寛さんの墓を見たときには、お墓がまぶしく光り輝いていた。
良寛さんには不似合いに、人の背丈を越え、巾が1メートルもあろうかと思われる1枚岩を目にして、私は照れ臭いようなとまどいを感じた。
あれは、なぜなのだろうか。
 
良寛を好きだという人は多い。
わが師(紀野一義先生)も、良寛さんが大好きで、何度も、かの地を訪ねている。
先生によれば、良寛が友の有願を訪ねて歩いた中ノ口川に桃の花が今も美しく咲く場所があるとのこと。
できれば、一度その地を歩いてみたいものだ。
先生にその場所を聞いたのだが、ただにっこりとされただけだった。
自分で探すものだよ、ということだったのではないかと思っている。
 
数年前、先生が亡くなって間もなく、良寛を好きであり仏教学者であるという人間が、悪意を持って、紀野先生への批判を書いていた。
私は、激怒したけれど、その彼は、良寛さんの何を好きだというのだろうか。
 
いつか彼が、私の間違いであったいうことがあるのであろうか。
私は、時々、それもだんだんと遠い昔のことのように、この怒りを思い出す。
生きていれば、好きなものと嫌いなものがある。

良寛さんも、ある学者が嫌いであった。その学者、高名な学者にも議論をふきかけ、相手が返事をしなければ、自分の方が上だと思っていたらしい。風邪で寝込んだ庄屋さんの家で、気を使って良寛さんの周りを屏風で囲ったのだが、その屏風は嫌いなその学者の書であった。
翌日、その屏風に気づいた良寛さんは、風邪が治らない原因がわかったといって、庄屋さんの家をそそくさと出て行ったそうだ。

良寛さんにも、確かに好きな人、嫌いな人はあった。

良寛さんは、道を歩いていても、時々、ひょいととび跳ねたという。
一生懸命咲いている野の花を、踏みつけては可哀そうだと、とび跳ねたのだ。
 
そんなに優しかったら生きずらくてしようがないとも思う。
それで死ぬなら死んでもかまわないのが良寛さんだったと思う。
 
その身を仏様(縁)にまかせて、良寛さんは、そよ風のように生きた。
 
私も、良寛さんを見習って生きていきたい。












今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。

    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
      一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。









南無(なむ)について    2017年9月

高校生の頃、南無阿弥陀仏の南無は、感嘆詞で「ああ」とか「おお」の意味であると、ある雑誌に書かれていたように思う。
それから何十年も、そうだと思っていたのだが、十数年前に南無は帰依と同じ意味なのだと知った。
同じ南無阿弥陀仏の解釈が「ああ阿弥陀仏様」から「阿弥陀仏に帰依します」に変わったのである。
帰依という言葉も、いったい何なのか、はっきりとはしないが、南無も帰依も帰命も、同じ意味の言葉であり、全身全霊で身と心をささげて、ついていきますということであろうかと思う。

我が師(紀野一義先生)は、例会や講話の初めに三帰依文を称えられた。
南無帰依仏(なむきえぶつ)、南無帰依法(なむきえほう)、南無帰依僧(なむきえそう)
これを大きな声で、三度称えるのである。
これは我が師の師である、鎌倉の円覚寺の管長であった朝比奈宗源老師が、三帰依文を大切になさり、必ずお称えになったことによる。
理屈抜きで、この三帰依文を称えることが、我が師の教えを受けつごうとする者の使命でもあるように思う。
ところが、この三帰依文は、私のそれまでの解釈では、帰依する仏に南無(帰依)するという訳になってしまい、帰依が重複するのである。
文法的におかしいというか、何か間違っているのではないかという思いが脳裏をかすめたことがあるのである。
紀野先生のそばにいたのだから、さっさと質問すればよかったのに、うやむやに、ただ三帰依文を称えてきた。
それはそれでいいのだ、ただ先生が大切にされた三帰依文を称えればいいのだという思いも強くあった。
最近のインターネットは便利である、三帰依文を検索すると、確かに「南無帰依仏」は「帰依したてまつる仏に帰依する」というような訳が掲載されている。
ついでに南無について調べると、帰依と同じ意味であることが書かれているが、どうやら南無は、古代インドのパーリ語では、「お任せする」という意味があるということがわかった。
なるほど、そうかと思った。
南無(ナーム)には、お任せするという意味があるのである。
無阿弥陀仏も阿弥陀の名前を呼べば救われるから、アミダ様と呼びかけるのであり、アミダ様の教えに身と心をささげてついていくのであり、良いも悪いもアミダ様におまかせするしかないのである。
信心も大切ではあるが、信心を深めようとすると、それが欲望となり、人を苦しめる。
仏様にお任せするという心には、私心がないし欲がない。
ここのところが大切かもしれない。
南無帰依仏。
帰依する仏様にお任せします。
朝比奈宗源老師は「人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に命をひきとる」と言われた。
紀野一義先生は「迷っても、悟っても、仏のいのちの中」と言われた。
私は、歳をとれば迷わなくなると思っていたが、還暦を過ぎても、生きるうえで、次から次へと問題が起き、その都度、心を痛めることが多い。
自分の無力を、思い知らされる。
しかし、精神的にはたくましくなったようにも思う。
一つの居直りに過ぎないかもしれないが、生きようが死のうが、どんな問題がおきようが、仏様にお任せすることにした。
無神経になって、何も感じないというのはつまらない。
悲しみも苦しみも、貴重な体験だと思う。
しかし、そこに長くとどまらないことである。
執着を捨て、仏様にお任せで生きていくのもいいものかもしれないと思うようになったのである。 

南無帰依仏
南無帰依法
南無帰依僧
 





「わたしの愛する仏たち」 水書房より  興福寺須菩提



今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。

    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
      一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。

 


 










三世諸仏(過去現在未来の諸仏)     2017.8



般若心経は、孫悟空でご存知の三蔵法師が天竺(インド)への旅の途中、助けた僧から教わったというお経である。
このお経を唱えて行けば、数々の災難から逃れることができ旅も無事終えることができるというお経である。
四国のお遍路さんは、このお経を唱えながら四国八十八か所を巡って行く。
私も唯一暗唱しているのは、この般若心経のみで、この数ヶ月は毎朝のように唱えている。
お経の読み方によると思うが、ゆっくりと読誦して5分、早く読めば、1、2分で読誦できる。
 
この般若心経の後半部分にサンゼーショブツ エーハンニャハラミタコ トクアーノクタラー・・・という言葉がある。
これは過去現在未来の仏様が、この上ない悟り、最高の悟りを開かれたのだから安心しなさいということらしい。
諸仏の悟りは、すべての生きとし生けるものが幸せになるということを保障している。
なのに、ほとんどのお坊さんは、みんなが仏になれる、みんなが幸せになれるとは言わない。
私の、考えが間違っているということなのかもしれない。
 
法華経には常不軽菩薩のことが書かれている。
常不軽菩薩は、誰に向かっても「あなたは仏様になられる方です。決して軽んじたりはしません」といって、どの人に対しても礼拝したという。
もちろん礼拝された人の多くは、自分のことを馬鹿にしているのか、気色の悪い奴だと、石をぶつけたりしている。
それでもすべての人に対して礼拝することをやめなかった。
 
このような話しが経典にもきちんと語られているのだから、やはり、すべての人には仏性があり、いずれは仏となるのであろう。
そのためには何度も何度も生まれかわらなければならないのかも知れないが・・・。
 
いずれは、誰しも仏となるらしいことがわかると、ひとまず安心だ。
 
世の中、救いようがなく、真っ暗闇のようにも思えるが、いやいや本当は明るくさわやかななものかもしれない。
 
せっかく、この世にいるのだから、苦難を最高の喜びとしたいものだ。
 
何しろ、仏になったら、苦難など何もなくなってしまう。
 
何もかもがすっきりわかりすぎて、やはり、つまらない。
 
あいかわらず、私は、極楽浄土は退屈でしようがないと思う人間でもある。
 
そのくせ、苦難に立ち向かい、おろおろして、不安にかられたりもするのである。
 
でもだんだん、おろおろも不安もなくなってくることが嬉しいような、そろそろあの世が近くなっているのかと、どうでもよいことに思いをめぐらしている。
 
わが師、紀野一義先生に6、7年前だろうか、先生の著書を持参してサインしてもらったことがある。
 
そんなこともちょくちょくあって、折に触れて、先生の言葉を思い出す。
 
あのときには「迷っても 悟っても 仏のいのちの中  死んだら また会おうな」と書いてあった。
 
なんだか、その時から、死んでもそれっきりではないな、また、先生に会うのかもしれないな、会っても恥ずかしくないように生きていかなければならないと思ったりする。





 
 
 
2011.1.6 谷中・全生庵近くの喫茶店にて 紀野一義先生 88才
 






今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。

いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。

    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
      一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。

 









「親鸞聖人と法然上人」 2017.7



親鸞聖人は法然上人の弟子である。
親鸞聖人と法然上人の年齢は40歳も離れている。
ある日若い親鸞聖人が、10人ほどの法然上人の弟子がいるところで「法然上人の念仏もこの私(親鸞)の念仏も同じだ」と言った。
多くの弟子が親鸞にとっては兄弟子であり、その多くが親鸞の発言をけしからんと非難して、法然上人に意見をもとめた。
法然上人は、10人ほどの弟子に親鸞の考えをどう思うかと一人一人に聞いたところ大半が反対の意見であった。
ところが法然上人は「親鸞のいう通り、私(法然)の念仏も親鸞の念仏も同じだ」と答えたという。
 
親鸞聖人は法然上人のことを絶対的に信頼したのもこのような経験もあってのことだと思う。
親鸞上人は、たとえ法然上人のいうように南無阿弥陀仏と念仏して、極楽浄土に行けなくても構わないという。
法然上人がおっしゃるのだから、まかり間違って、念仏して、地獄に落ちようが構わないという。
それだけ法然上人のことが好きで信頼しきっていた。
親鸞聖人は法然上人を信じるがゆえに、阿弥陀如来を信じたのであると思う。
歎異抄を読むと、親鸞聖人は南無阿弥陀仏と念仏しても喜びがわかない、極楽浄土に早く生まれたいという気にもならないというようなことが書かれている。
親鸞が心から喜びを感じて南無阿弥陀仏の念仏を唱えることができるようになったのは晩年のことであるようである。
それでも多くの衆生を念仏の世界へ導いた。

私の大好きな良寛さんの和歌に「良寛に辞世あるかと人とはば南無阿弥陀仏というとこたへよ」というのがある。
そして曹洞宗の僧であった良寛の墓が、良寛が終焉をを迎えた木村家の近所の浄土真宗のお寺にあることは驚きである。

 
すべての人を救うという念仏が、法然上人を救い、親鸞聖人を救わないということはない。
どんな人間でも救うのが、阿弥陀如来の願いであり、「南無阿弥陀仏」の念仏なのである。
 
阿弥陀如来の教えは1万回念仏をとなえることと1回念仏をとなえることも同じということであると思う。
仏教を勉強して阿弥陀如来の教えを勉強して念仏をとなえることと、仏教も阿弥陀如来のことも知らなくて念仏をとなえることも同じということであると思う。
 
阿弥陀如来だけでなく、すべての仏の願いは生きとし生けるものをすべて救うことである。
仏教は、善人悪人などの区別はしていない。
仏教を知る知らないなどの区別はしていない。
 
このようなことを言えば、必ず平気で悪事を働く人間が出る。
現代はかなりの知能犯が多くて、ずるがしこく人知れず悪事を働く。
確かにこの世は、真っ暗闇にも見える。
そんな中で、美しいヒカリを放つものがある。
生き難き世の中を愛をもって生きることほどすばらしいことはないのかもしれない。
 
 
 
師のない仏法はないそうである。
仏教は人から人に伝わるものであるらしい。
親鸞聖人の師はまさしく法然上人である。
このような師に巡りあえることは、人生最大の幸せに等しい。
 
男が女を好きになり、女が男を好きになる。
本当に愛が深ければ、そこにその人がいるだけで人生は輝いて見える。
男と女が結婚して子供が生まれる。
初めての子供は光り輝いて見えるものだ。
 
しかし、それらの愛は多くは10年もしないうちに輝きを失う。
 
師と弟子の愛も多くはそうであろう。
 
けれども、輝きを失わない愛がないわけではない。
 
 
 
 
 

 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。

    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
      一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。







 水書房 「わたしの愛する仏たち」より  薬師寺月光菩薩

















「耐え忍ぶことの大切さ」   2017.6

「若い時の苦労は買ってでもしろ」と格言のようなものがあります。
「艱難、汝を玉とす」とも言います。
 
私も、苦しい思いをしている人がいたら、決して、それは無駄にはならないと言いたい。
どんな苦しみも、そう長くは続かないものですよ。
いつか必ず、抜け出しています。
 
61年間の人生をふりかえると、私の人生は苦労の多い人生であったと思います。
そのことが、この頃、よかったのだとも思えるのです。
私が幼少の頃から父親は、酒を飲むと狂ったように暴れ、絶えず問題を引きおこしていました。
家庭内は非常に暗かったですね。
本当に嫌な思いをたくさんいたしました。
しかし、その原因の一つが私の出生の秘密にあることを知ったのは、ずいぶん後のことです。
「母をたずねて三千里」という物語を読み、食事中に、三千里とはどのくらい距離があるのかと聞いたことを思い出します。
近所のおばあさんに、「おかあさん、そっくりだね。いつもニコニコしているね」と言われ、そのことを母に話したら、急に母のキゲンが悪くなったことを思い出します。
小学3年生の頃は、何も悪いことをしていないのに、なぜ、自分は不幸なのだろうかと思い、神や仏はいないに違いないと思いました。
アンデルセンは少年のころ、靴磨きをして生活していたということを知り、うらやましくて都会に家出して靴磨きをしたいと思ったものです。
お腹に包丁をつきたてて切腹すれば、死ねると思いましたが、少し突き当てるだけで痛くて断念したこともあります。
だから作家の芥川龍之介や太宰治などが自殺したということを知ると、勇気のある立派な人に思えて、自殺したというだけで尊敬したものです。
小学校5年生の時に、友達の里美ちゃんが脳腫瘍で亡くなったときには、仏壇の中の阿弥陀如来を取り出して、頭を叩いてやりました。
罰があたるなら罰があたればいいとのおもいでした。
友達が先に死んだのだから、死というものが、それほど恐ろしくなくなったのも事実です。
ちょうどその頃から、家庭が比較的おだやかになり、それとともに私の学業成績もみるみる上向きにもなりました。
中学生の頃は、学年でトップを争うほどでしたから、なんだか順風満帆、怖いもの知らず、明るくほがらかな日々を送りました。
しかし、高校に入学後、失恋や祖父が殺害されるなどの事件が次から次へと起きて、薄闇に包まれた青春が始まりました。
それから妙な縁で警察官となり、貴重な体験もしました。
私は農家の生まれですから、農民の土地を守る成田闘争だけは、出動したくないと思っていたのですが、皮肉にも管区機動隊に2年間在籍し成田闘争に出動、おまけに次は第一機動隊に転勤となり、またいつまでとはなく成田闘争等に出動することになりました。それで第一機動隊に転勤とともに退職することを決断しました。
その時の、同期も今年の3月で全員退職となり、2月には何十年ぶりの同期会に出席しました。
寝食を共にし、困難をともに経験した仲間はやはりいいものです。
その後出版社のグループ企業内で30年ほど勤めましたが、2年に1回は上司と衝突したりして、部署の移動、退職、再就職、独立と波乱に満ちていました。
私のような人間は、上司にすれば煙たくて扱いにくいのだと思います。
妻にしても、妻にありがとうの一言も言わない、しかってばかりの私は嫌な夫にしか過ぎなかったと思います。
新しい彼を見つけて、妻は家を出ていきました。
これは、やはりかなりのショックでした。
その頃、会社は倒産するし、借金はあるはで、駅のホームを歩いていると線路にすいこまれそうで怖かったのを覚えています。
 
それで、私には、誇れるようなものはありませんが・・・。
今は、色々の苦難も良かったなと思うのです。
我慢して、こつこつ生きていれば、それなりに道は開けるものだと思います。
いつまでも、くじけてうじうじしていても始まりません。
嫌なことは、忘れて、新しい人生を一歩一歩、歩みたいものです。
最近の自分を見ていると、少々のことでは、くじけそうにないとも思うのです。
まあ、それは、わかりません。想像以上の苦難が待ち受けているかもしれません。
ただ、じっと耐える自信はあります。
それで、何とかなると思います。
 
私と同じように苦しんでいる人を見ると、少しでも応援したくなります。
けなげに生きている人を見ると、応援したくなります。
実は、おあいこで、そのような人は私を応援してくれるのでもあるのですが・・・。
お互い頑張りましょうね。
 
じっと、笑顔で忍耐です。



 
 
 
スマイル仏壇店内の観音様








 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。










「仏壇あるところ道場となる」   2017.5

仏壇とはなんなのだろうと考えたとき、明確な答えはないようである。
仏壇の起源も、仏壇の必要性も明確に説明したものはない。
 
私の田舎では、どこの家にも仏壇があった。
今でもそうだと思うが、都会では、仏壇のない家も多くなった。
だんだんと、日本は昔の日本ではなくなってきている。
それが良いことなのか、悪いことなのかはわからない。
しかし、文明が進み、便利になり裕福な時代となったが、日本人の幸福感は向上したのであろうか。
 
明治に日本にやってきた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、日本人の庶民があまりにも善良で無欲で純真であることに感動した経験を作品として残している。
陶芸家のバーナード・リーチは小泉八雲の作品を読んで、日本に強い憧れを持ち、留学先で友人となった彫刻家で詩人の高村光太郎に日本行きを相談している。
高村光太郎は、小泉八雲が見た日本はすでにないから、日本行きはよした方がよいと言っている。
明治の30年、40年の間にも急激に日本は日本らしさを失ったということのようである。
 
仏教は、人としての生き方に大きな影響を与えてきた。
人生のどうしようもない悩み苦しみにも、生きる望みや安心を与えてきた。
仏教は物質面の幸せではなく、精神面の幸せに大きく役立ってきた。
それがいつの間にか、庶民には葬式のときなだけ必要なものか、観光地としての見学先になってしまった。
当然例外はあるだろう。
これは、仏教関係者だけの問題ではない、日本人の、いや人間(人類)の問題である。
 
ところで、仏壇とはなんなのだろう。
道元禅師は、京都の在家信者の家でお亡くなりになった。その数週間前に、信者の家のお堂の廻りを法華経の神力品を読誦しながら歩かれたそうである。
この神力品には、諸仏はあらゆる場所にいらっしゃる。野でも山でも、家でも庭でも、どこにでもいらっしゃる。そこに塔を建てよ。そして供養しなさい。
その場所は仏教の道場となる。というような意味が書かれているらしい。
なるほど、仏壇を置き、線香を焚き、水をささげ、ご飯やお菓子をささげて両手をあわせて拝む場所は、神妙な道場である。
目に見えない仏や父や母や息子や娘を思うとき、いつもの日常と違ったものがある。
仏壇のある部屋は、仏教の道場である、心の道場である、人間いかに生きるかを問う道場である。
 
仏様は、あらゆる場所にいらっしゃる。
仏壇があれば、そこはたちまち仏教修行の道場となる。
なかなかいいではないかと思う。



私の愛する仏たち(水書房)
法界寺阿弥陀如来




 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。








「紫の法衣と黒の法衣」   2017.4



 鎌倉時代の道元禅師の跡を継いだ懐奘(えじょう)という僧がいらした。懐奘は比叡山でも将来を期待される僧でもあった。
 この懐奘の母は「紫の衣を着るような僧ではなく、墨染の黒い衣を着て、裸足で街中を歩くような僧になってほしい」と言ったという。
 室町時代の一休禅師は、高貴な方から法要を依頼されて、紫の法衣が送られてきた。すると一休禅師は、法要には行かず、その紫の法衣だけを法要の場に届けたという。
 そして、現在の平成時代、ある禅宗の管長は、多くの管長が集まる定例の法要に、紫の法衣ではなく黒の法衣で出席したかったが、様々な理由で、それができなかったと書きしるしている。
 様々な理由もそれなりに想像はできる。
 たかが衣の色の話である。
 しかし、人間というものの姿の一面がよくよく現れているような気がする。
 
 私も、いつのまにか事なかれ主義になっているのだろうか。
 このメールを読む人には、寺院関係者が多い。
 生意気なことを書く奴だと、こらしめてやれと思う方もいらっしゃることだろう。
 この文章を書きながら、強烈な中傷を受けるのではないかと、一瞬の不安が脳裏をよぎってしまった。
 そのようにして、人はいつのまにか体制の中で、飼いならされて、大切なものを見失ってしまうのかもしれない。
 
 「我が身を捨ててこそ」と、思っているが、いつの間にか、自分の苦難や仲間の苦難を厭うのである。
 良寛さんは、政治の話しをすることを嫌っているし、教団というものもお好きではなかったようである。
 長岡藩主から寺を寄進するという話しもきっぱりお断りしている。
 一生、乞食坊主として、一間の部屋で過ごした方である。
 貧村を托鉢して歩きながら何も得ることがなくむなしくしている時、ある高僧に出会い、自分の中に宝があることを教わったという。
 それからは、自由な心で托鉢もできるようになったようである。
 宝は、なんであるのか。また良寛の悟りはどんなものであるのかは記されてはいない。
 それは、口にしたり書いたりすると壊れてしまいそうなほど微妙なものらしい。
 
 私達は、何でも学問すればわかるような気がするし、どうもうまく説明して証明していかないと、納得しない者が多い。
 ある時、紀野先生が、「尾てい骨に響くような話し」ということをおっしゃたことがある。
 頭で理解するのではなく、身体ごと、ドカーンと衝撃を受けるような話しをしたり、書いたり、聞いたりしたいものだ。
 
 
 これを書き終えようとする4月3日午後6時前、東京都の杉並区は、突然の雷(かみなり)の轟(とどろき)と雹(ひょう)である。
 何とも、今後の波乱の人生を予告するようでもある。
 これを、さあ、おもしろくなったと思うか・・・仏様におすがりするか・・・まあ、それなりに生きていくに違いない。
 
 
 
「わたしの愛する仏たち」 水書房  中宮寺如意輪観音
 












「わが身を捨ててこそ」   2017.3



南無阿弥陀仏と言えば、浄土宗の法然聖人、その弟子の浄土真宗の親鸞聖人という気がする。
南無阿弥陀仏の念仏は、法然上人に始まるようにも思っていたが、法然上人よりも200年前に生きた空也上人も忘れてはならない人のようだ。
口から南無阿弥陀仏の六体の仏像を吐き出している空也上人の像は、印象的だ。
年代がよくわからないので、法然上人の後の人かと思ってもいたが、実は、ずいぶんと古い方だったのだ。
空也上人は、特定の宗派に属さず念仏の信心を説いて歩いた僧だというこただ。
素性も教義もはっきりとはわからないようだし、空也上人のことは紀野先生の「わたしの愛する仏たち」という本で読んだくらいである。
空也上人は京都の街では、それなりに名前は知れ渡っていたようではある。
この空也上人に、朝廷に仕える千観内供という僧が、四条河原で出会ったたとき「いかにして後世を助からんことを仕るべき」と聞いた。
最初は、何も答えなかった空也上人であるが、あまり熱心に聞くので、一言、返事したらしい。
「何(いづ)くにも身を捨ててこそ」
これを聞いた千観内供は、感じ入ることがあって、たちまちに朝廷の職を辞して箕面山に身を隠し、やがては南無阿弥陀仏の念仏を広めるようになったとのこと。
 仏教に関わる本を読んでいると、非常に興味深いお話しが多い。
 
剣の達人と仏教の関わりも深いが、宮本武蔵は晩年肥後熊本の細川侯の元に仕えた。
ある時、細川侯が、宮本武蔵から見て藩内にこれはという人物はいるかと尋ねた。
武蔵は、少し思案して「一人、それらしき人物がいます」とこたえた。
その人物は、細川侯から見ても、誰が見ても大した人物には見えない。
そこで細川侯が直接その人物に会って、心当たりがあるかと聞いてみたが、本人も何もないという。
宮本武蔵ほどの男が、認めた男なのだから何かあるはずだと、強く問いただすと、「そう言われれば、一つ心あたりがあります。常日頃から、自分のことは据え物であると考えるようにしています」
とこたえたそうだ。
自分が、据えも物、置物であるのであれば、右に動かされようが左に動かされようが、打ち壊されようが意に介さずという覚悟であろうか。
そこには、わが身に対する執着はない。宮本武蔵と真剣で勝負しても、泰然と剣を構えたに違いない。
当然剣の極意の奥深きところには、「わが身を捨ててこそ」というものがあるに違いないと思う。
これが、自分のものにできたら、仏教も剣道も人生もかなり奥深いものになっていくに違いない。
 
この話しをすると、もう一つ話したくなる愉快な話しがある。
三重の伊勢に明治大正昭和を生きた村田和上という真宗の僧がいらしたのだが、何か社会的なことで問題が発生したのだろうか、極道というかヤクザな連中が寺に押しかけて村田和上をさんざん脅したらしい。
村田和上が、びくりともしないので「俺たちはなぁ、死ぬことなんか怖かねえんだ。覚えていやがれ」と捨て台詞をはきながら帰ろうとした。ただ、あまりにも寒い日だったので、手ぬぐいを取り出してほうかぶりをしたらしい。
その時村田和上は一言「死ぬのが怖くないような人も寒いのかい」と言ったらしい。
ヤクザな連中もぐうの音も出なかったに違いない。
 
わが身を捨てている人間は、やはり、違う。
完全に捨てきれなくても、わが身に対する執着をなくしていくということは大切ではないだろうか。
 

[わたしの愛する仏たち」水書房 空也上人 
 
 
 
 
 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   心ひろびろと、さわやかに生きん。
   真理をもとめてひとすじに生きん。
   おおぜいの人々の幸せのために生きん。














「両手両足がなくても生きていける」    2017.2

達磨大師に始まる禅宗の六祖である慧能(エノウ)は、元は木こりで薪などを売って生活していた男で、文字の読み書きもできませんでした。
(学問にも秀でた立派な兄弟子達が多くいましたから、無学な男が祖師になったということで、妬みや怒りもすさまじく、命も狙われましたが・・・)
イエスキリストも確か元は大工さんではなかったかと思います。
一般的な学問という教養がなくても、悟ることは十分できるということであろうと思います。
 
我が子が4歳で自分の名前が書けるようになったことを大喜びする父母もあれば、4歳なのに自分の名前しか書けないと嘆く父母もあります。
名声高く豪邸に住んでいても、夫が浮気をした、子供が非行に走った等々、あえぎ苦しんでいる人も多くいます。
当店にも自分達家族の不幸を嘆き、先祖供養で何とか救われたいという方々から相談を受けることがあります。
たまたま生活が好転すると、おかげさまでとお礼を言われます。
そして何年かたち不幸が続くと先祖供養の仕方が間違っているのではないかとの相談です。
先祖供養は悪いことではないでしょうが、先祖供養したから必ず幸せが訪れものではなく、
人生いいこともあれば悪いこともあるし、良いことが続くこともあれば悪いことが続くこともあります。
そんなときに、どのような心がけで生きていくかということであろうかと思います。
苦しみと思えるような出来事も、実は喜びに変わる出来事でもあるのです。
 
 
なかなか苦しみ悩みから抜け出せないという人には、優秀で過去に恵まれた生活を経験した人が多いのではないでしょうか。
もともと貧乏で頭もよくなく出世など考えたこともなく、欲もあまりない人ならば、人生それほど苦しんだりはしないように思います。
そして神や仏をどこかで信じている人には大らかさがあります。
(ただし、私は人に信仰することを押し付けるような人は間違っていると思うし、ある意味嫌いです)
 
幼い時に、両手両足を失いながらも口で裁縫をすることもできた中村久子という女性がいました。
見世物小屋で長く働き子供も立派に育てた女性です。
来日した盲目で聾唖であったヘレンケラーが中村久子に会って「私より不幸な人、私より偉大な人」と称賛しています。
この中村久子の講演会での言葉に、なるほどという言葉があります。
 
「人の命とはつくづく不思議なもの。確かなことは自分で生きているのではない。生かされているのだと言うことです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はないのだ。」
 
中村久子は42才の時に歎異抄に出会ったらしい。
やはり彼女の人生を輝くものに変えてくれたのは、仏教の教えであるようである。
 
中村久子さんとおつきあいがあったのは、Hさんだっただろうか。
紀野先生の著書の中で、彼女が手足を失くし家庭的にもめぐまれない中、強く生き続けたことだけはかすかに覚えていた。
中村久子という名前も、すっかり忘れて、紀野先生のどの本のどのあたりに書かれていたお話しだったであろうかと思いながら、みなさんに紹介するには、あまりにもいいかげんすぎると思っていたが、ふと浮かんだ「中村久子」という名前でインターネットで検索すると、しっかりと、中村久子という女性がウキペデイアに掲載されていた。
 
中村久子さんもヘレンケラーも、美しい女性でもある。
 
 
 
 









「イワンのばか」    2017.1

 小学校2、3年生の頃は、アンデルセン、グリム、イソップなどおもしろおかしくて夢中で読んだものだ。
 日本の童話では、ごんぎつねや泣いた赤鬼には、涙を流したりもした。
 「イワンのばか」もこの頃読んで、そこぬけにお人よしで愚かで馬鹿であることはすばらしいことでもあると学んだような気がする。
 このイワンのばかは、なんと岩波文庫にも収録されている。
 最近気づいたのだが、作者は文豪トルストイである。おまけに岩波文庫の本のカバーに書かれた解説によるとロマン・ロランが「芸術以上の芸術」「永遠なるもの」と絶賛している。
 ただの童話だと思っていたが、確かにトルストイの人生観というか「人間いかに生きるべきなのか」が表現されているのだと思う。
 
 中学1年生になったときに、小学校時代の同級生19人はいきなり私のことを、男子は「ノダ」女子は「ヨシハル君」と呼び始めた。
 中学校に入学するまではみんな「ヨッチャン」と私のことを読んでいた。
 みんなといっても3人は、引き続き「ヨッチャン」と呼んでくれた。
 その1人の男の子と1人の女の子は、普段から非常に不器用で決して利口とはいえないタイプだった。
 もう1人は非常に賢くもあり、友情というものについても語りあった女の子ではある。
 私は、あいかわらず小学校時代の時のままの呼び名で、みんなの名前を呼んだ。
 今でも、たまに会うことがあれば、そのまんまである。
 その頃も、友達に急に態度や呼び名を変えるのはおかしいと言った覚えがある。
 皆、それぞれに言い分があったようだ。
 普通の人間というのは、何でもないようだが、意外とあてにならないし信用できないものだと思う。
 それが絶対に悪いというのではない。
 世の中は、時代や環境が変われば、いとも簡単に変わるものだということである。
 
 さあ、「人間いかに生きるのか」とか「真理とは」。
 なかなか結論が出ない。
 このようなことを思って生きると孤独なこともある。
 
 
北原白秋の「巡礼」という詩がある。
 
 巡礼
 
真実、諦め、ただひとり、
真実一路の旅をゆく。
真実一路の旅なれど、真実、錫ふり、思ひ出す。
 
 
 
人間はというより、日本人はスズやリンの音色に何かを感じてきたようだ。
 
 
私はあまり俳句や短歌は読まないが飯田蛇笏の有名な俳句に
 
 くろがねの秋の風鈴鳴りにけり
 
というのがある。
飯田蛇笏が戦争や病気で息子達を失ったことを知ってからは、秋を表現した句というよりも、悲しみや鎮魂の句のようにも思える。
 
昔読んだ、童話や詩や俳句が、歳をとるとともに、また、違った意味でよみがえる。
60歳の私は、幼少の頃とそんなに変わっていないように思うのだが・・・・。
もっとも、幼い頃は広島弁でワシと言い、それが僕になり、この頃は、私と書くことも多くなった。
会話では、あいかわらず僕でもある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   心ひろびろと、さわやかに生きん。
   真理をもとめてひとすじに生きん。
   おおぜいの人々の幸せのために生きん。







「仏様はいらっしゃいますか。」  2016.12

仏様はいらっしゃいます。
私は師と仰ぐ紀野一義先生のおそばにいて、仏様はいらっしゃるのだなと思うようになったようです。
実のところ、自分がどのように信じているのかは定かではありません。
紀野先生のお話しや著書にも出てくる、大正、昭和に活躍された浄土宗の僧である弁栄聖者の臨終の言葉は「如来はまします・・・衆生はそのことを知らない・・・弁栄はそのことを知らせるためにやってきた・・・」だとお聞きしています。
文化勲章も受賞した世界的な数学者であった岡潔先生は、弁栄聖者を尊敬され、定期入れには弁栄聖者の信仰する阿弥陀如来の写真が入っていたそうです。
その写真を時々出しては、眺めていらしたとのこと。そして、「私が悪いことをするのも、良いことをするのも阿弥陀如来がしていらっしゃるのだ」と、そのようなことをおっしゃていたらしい。
紀野先生は、工兵の下士官として出征し、13隻の船団が12隻撃沈され、魚雷がすぐそばをかすめていくのも目撃されました。
撃沈された船の乗組員を救助しようにも救助できない。海に漂う兵士達は、救助しようとすると、先に行けと手を振る。停船したら、敵戦艦にたちまちに撃沈されることを知っているからです。
1隻残ったサマラン丸という船は台湾に上陸したものの、激しい空爆に襲われます。
不発弾の数も相当なもので、軍の不発弾処理班は誤爆で壊滅しました。
台湾の農民は不発弾を恐れて仕事ができません。爆弾に触るべからずとの軍命令が出ていましたが、農民のために軍命令を無視して紀野先生は、一人で不発弾の処理をしていきました。
その数1752発。どう考えても、誤爆しなかったのが不思議です。
実際に3度、信管をはずした瞬間、撃針が先生の指につきささったことがあったようです。
アメリカ軍の爆弾ですから、その構造がわからないものがあります。
そんなときには、爆弾の側で坐禅して思案したこともあったようです。
もともと紀野先生は、顕本法華宗の寺院の出身、中宮寺の如意輪観音様にそっくりのお母様は浄土真宗のご出身、仏様やお母様に守られていたことは間違いないようです。
この頃から先生は、仏様の存在を確かに感じられたのではないでしょうか。
東京大学印度哲学科の特別研究生にも選ばれ、将来は仏教学者としての道は開けていたのに、仏教伝道の道を選ばれました。
おおぜいの人々の幸せのために仏教をわかりやすく伝えていきたいというのが先生のお気持ちだと思います。
私が30歳、先生は65歳。
講談社の新書版で「般若心経を読む」という紀野先生の著書を初めて見たとき、読んだというよりも、本のカバーの先生のお顔の写真を拝見したときの印象が強烈でした。
ハンサムではありましたが、頑固一徹、嘘は決してつかないだろうというお顔を拝見して、非常に印象深く思ったものです。
当時、私はS出版の地方の営業マンでしたが、S出版の仏教コミックの監修が紀野先生でした。
だんだんと、紀野先生に近づき、先生の晩年は月の十日前後は、足が不自由になられた先生のお供をするようになりました。
先生のお側にいたおかげで、仏様はいらっしゃるということが自然に信じることができるようになったようです。
 
どれだけえらそうなことをいっても、迷ってばかり、不安と苦しみもつきまといます。
しかし、人生、つらいことも、迷いも、不安もあっていいのだということもわかってきたように思います。
 
先生がお亡くなりなる2年ほど前のことだと思いますが、先生の著書を持参して先生のサインをいただたくことがありました。
「・・・・・。迷っても、悟っても、仏の命の中。死んだら、また、会おうな」と書かれてありました。
迷ってばかりの人生だけど、それはそれで、いいのではないかと思います。
 
どうやら、死んだら、それでおしまいなのは、この世がおしまいなだけで、あの世もありそうですが、あの世で先生に会って、恥ずかしくない生き方をしたいものです。
 

 今は亡き、わが師の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   心ひろびろと、さわやかに生きん。
   真理をもとめてひとすじに生きん。
   おおぜいの人々の幸せのために生きん。







「気にしない生き方」   2016.11

 ゲーテの格言を紹介した本を読んでいると、「商売のコツ」についての言葉がありました。
「商売のコツは市場に行けば、一目瞭然だ。売れている店は、他の店のことなど見向きもしない。自分の店の商品のよさを大声で売り込んでいる」
 良寛さんも、ある人から金持ちになる方法を教えてほしいとお願いされると、「他人のことは気にせず、自分の仕事をまじめにやれば、金持ちになれる」と答えたそうです。

 人間だから、人からよく思われたいと思うのは当たり前ですが、人目が気になりすぎ不安になると、動きがにぶってしまいます。
 せっかくいいところがたくさんあるのに、人目を気にし過ぎて、自分らしさを失ってしまうのはもったいないことです。

 短所ばかりだと思っている人もいるかと思いますが、短所と長所は裏腹の関係です。
 神経質だという欠点は、繊細だという長所です。
 コップ半分の水も、まだまだ半分あると思うことも、もう半分しかないと思うこともできます。
 病んで失うだけの人もいれば、病んで得る人もいます。
 1万円のお金で満ち足りる人もいれば、1億のお金でも不足を感じる人がいます。

 人が窮地に追いやられたときに、どのように生きるか。
 神や仏から、人間としての試験を受けているようなものかもしれません。
 
 人間、気持ちの持ち方一つで、幸せな気持ちにも不幸せな気持ちにもなります。
 ちょいと視点や、ものの見方を変えてみることも大切です。

 なげき悲しむもよし、ニコニコするのもよし、ひょうひょうと受け流すもよし、右往左往するもよし、人目など気にして、自分らしさを失わないことです。
 萎縮して実力を発揮できないのは、もったいない話しです。


 わが師(紀野一義)の生き方の基本は、肯定肯定絶対肯定(ええなあええなあええなあ)という生き方です。
 このような生き方も世間からは傲慢だとか色々と非難されることもあります。
 その非難に、腹立つこともありますが、それは、まだまだ私という人間ができていない証です。
 そういった非難も、軽く受け流して、わが道をこつこつと歩きたいものです。
 
 今は亡き、わが師の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   心ひろびろと、さわやかに生きん。
   真理をもとめてひとすじに生きん。
   おおぜいの人々の幸せのために生きん。








「生きていることが救いだ」      2016.10

 前回「苦しみの対処方法 その1」と書きました。
 その1では、人間には様々な欲があるけれども、その欲に執着しないということであったろうかと思います。
 確かに、執着さえしなければ、苦しみはなくなります。
 では、その2は何かというと、仏教的には八正道といことでしょうか・・・・。
 正しいものの見方、正しい行い・・・・正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定。
 
 そんなことは、言葉でいくら並べても、心の平安にはつながりません。
 しばらくの平安はあっても、たちまち心はゆらぎはじめてしまうでしょう。
 
 やはり、信心や信仰の決定(けつじょう)というか、人生哲学というか、腹を据えるというか、そのようなものがないと、心はゆらぎやすいでしょう。
 かといって、盲信や自分の幸せ優先の信心は、どうも私は好きになれません。
 
 ところで、まだ十代の可憐な少女と、位牌や仏具の注文で、電話で応対することがありました。
 ひょっとすると、その少女は、世間一般からは不良少女とのレッテルを貼られているのかもしれないなとも思います。
 その少女の声は、なぜか世間ずれしていなくて、ひたむきで、声を聴いているだけで、可憐で美しい少女に思えました。
 でもその清純な可憐な少女が、世の中の荒波にもまれつづけたら、どうなるのでしょうか。
 荒んだ人生を歩み、薬物で身をほろぼすのでしょうか、人を騙し嘘と虚栄の世界を生きていくのでしょうか。
 できれば、人生の荒波に耐えてこつこつと生きてほしい。
 
 少年、青年の中にも、心優しき純粋な人もいるでしょう。
 心が優しいというか、心が美しいと、本当に生きづらい世の中です。
 絶望や虚無感にとらわれている人も多いことと思います。
 
 
 きっと悩み悩んで死線をさまよっている人も何人かいらっしゃるのではないかと思います。
 でも死んではいけません。
 「生きていることが救いだ」
 生きている限りは、無限の可能性があります。
 
 私は、幼少の頃から父親が大嫌いでした。
 父親が本当に、どうしようもない人間に思えました。
 かんきわまったのは、私が26歳の時に、父が、酒に酔い服用中の薬のせいもあったのでしょうが、よだれを垂らして、妬みと猜疑心のこもったどろんとした目で私を見つめた時です。
 私は、ショックで発狂して家を飛び出してしまいそうでした。
 あれから30年、父は、あいかわらずのようでしたが、孫の中にはそんな父(祖父)を好きだというものもいて、それなりに幸せに過ごしたようです。
 父が危篤というので、亡くなる2か月前に帰ったのですが、意外と元気で、驚いたのは、父が赤ちゃんのようにきれいな目をしていたことです。
 初恋の少女の目を見た瞬間にどきりとしたように、父の目を見て、あまりに美しく澄んだ目なのでドキリとしました。
  私は、父親の人生に何ら価値など見出せませんでしたが、このときから、父も生きていてよかったなと思えるようになりました。
 人生最後まで、何があるのかわからないものだと思います。
 
 
 自分が、ひどく不幸せに思うかもしれませんが、もっと不幸せな人もたくさんいます。
 自分が最低の人間だと思うかもしれませんが、そう思うのは、まっとうな心をもっているからでしょう。
 私も、人には話せない、苦しい経験、悲しい経験、恥ずかしい経験をたくさんかかえています。
 もしあなたが、聞きたいというならば、いくらでも教えてあげてもよろしいかと思います。
 
 私の人生の、大半は苦しみだったように思いますが、60歳過ぎて、ようやく、いかに生きるかといことが、少しわかってきたように思います。
 苦しみも、じっと耐えていれば、必ず、苦しみではなくなります。
 いつか、その苦しみが、結実して花咲かせるかもしれません。
 できれば、人知れず野に咲く、小さな小さな花を咲かせたいものです。
 人に知られない小さな花は、この世で一番美しい花かもしれない。
 苦しみ悲しみは、永遠には続かないものです。
 
 皆、天国や極楽浄土を望みますが、おそらく天国や極楽浄土は、ひまで退屈で、どうしようもないくらい退屈ではないかと思います。
 極楽浄土の住人から見れば、人間世界は、恐ろしくも、もう一度生まれ変わりたいほどの世界かもしれません。
 苦しみ悲しみは、大切な体験であり、魂を成長させてくれるものなのかもしれません。
 
 苦しみ悲しみは、ずっと続くことはありません。
 生きていれば、必ず、喜びの時もあります。
 一度死んだつもりで、生きなおせば、あえて死ぬこともないのではないかと思います。
 死んだつもりで、何もかも忘れて、何もかも捨てて、もう一度、やり直すという方法もあるのです。
 
 
 
 

    死

 

  夜半

  一人 ものおもえば

  水槽の水音が聞こえ

  アパートの

  小さな燈火が見え

  ここに

  死んでしまいたいのと

  つぶやく娘がいるなら

  僕も

  いっしょに

  死んでしまいたい

  それが

  何の意味のない死であろうと

 

 

これは、私が17歳のときの詩です。
16歳の秋に失恋し、年末には祖父が殺害され、翌年早々には両親が離婚すると言いだし、生活費を稼ぐためにガソリンスタンドでバイトも始めた頃の詩です。
さすがに心は曇ってきました。暗い目をしていたのではないかと思います。

 

 
 
高校を卒業すると、妙な縁で私は警察官になり、初めての現場勤務の1年間で、腐乱死体の司法解剖2件、自殺者の検視5件以上に立ち会うことになりました。
若者の農薬を飲んでの自殺の検視にも立ち合いましたが、嘔吐して失禁や脱糞して、もがき苦しんだ末の死体からは、覚悟の自殺にしても後悔の念も感じます。
遺書には、社会への批判やサタンという言葉が書き込まれていました。
おそらくは優秀な若者であったことは、在学していた大学の名前でもわかります。
自殺をすれば、他殺の疑いもありますから警察の検視が必ずあります。
死体を裸にしてすみずみまで、調べていきます。
温度計を肛門から直腸に差し込み、死後の体温も測ります。
 
私は、自分の身体を他人に検視されることを思うだけでも、自殺はしたくないものだと思いました。
おそらくは、自殺する人は自殺した人の姿を見たことがない方が多いだろうと思います。
どうでもよいようなことが自殺を思いとどまらせるかもしれません。
生きていることが救いです。
 
 
今は亡き、わが師(紀野一義)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。
 
 心ひろびろと、さわやかに生きん。
 真理をもとめてひとすじに生きん。
 おおぜいの人々の幸せのために生きん。










「苦しみの対処方法 その1」    2016.9

 私は、20歳のときに良寛さんの、ある漢詩の一つを読んで、良寛さんが大好きになりました。
 60歳の今日まで、東郷豊治氏が編纂された良寛さんの漢詩の詩集を何度も何度も読んできました。
 すると良寛さんは、悟りを確かに開かれ、自他ともにそのことを認めていたのだということがわかります。
 良寛さんは、その悟りは言葉にして誰かに伝えようとすると壊れてしまいそうだとおっしゃいます。
 当然、良寛さんの悟りが、どんなものだったのかということは、言葉では説明されていません。
 
 良寛さんは新潟県の出雲崎でお生まれになり、岡山県玉島にある円通寺で修行され、国仙和尚から印可されています。
 私の師である紀野一義先生も、良寛さんのことが大好きで、良寛さんに関する数冊の著書があります。
 私は、良寛さんが歩き紀野先生が歩かれた土地も少しだけ歩きました。
 
 子供達とかくれんぼをしたり手毬をつく良寛さんからは、悩みや苦しみは想像ができないと思います。
 子供達と遊んでいる良寛さんを、村人達は笑って通りすぎたり、どうして遊んでいるのですかと責めたりします。
 良寛さんは、軽く会釈して頭をさげて、やりすごしています。
 
 良寛さんにも色々なことがありました。
 あるとき知らない村を托鉢して歩いているときに、盗人と間違われたあげくに生き埋めにされそうになりました。
 たまたま良寛さんのことを知っていた庄屋さんが通りかかったので、運よく誤解がとけて助かりました。
 どうやら良寛さんは、強く弁明もせずにお経を唱えて生き埋めになるのを待っていたようです。
 
 良寛さんは漢詩の中で、「災難にあうときには災難にあうのがよろしい。これが災難を避ける方法だ」といっています。
 死ぬときは、死ぬのがよろしいということでしょうか。
 
 ところが、これほどの良寛さんでも友人の有願が死に、弟子の佐一が死んでしまうと、悲しみのあまり山中をさまよい歩きます。
 そして病気になって寝込んでしまいました。
 
 死ぬ前には大変な下痢で、それが耐え難い苦しみだったようです。
 漢詩の中に、その下痢の大変さが書かれています。
 最近、良寛さんの和歌を読んでいて、ドキリとしたのですが、この下痢の最中に「急に食事をとるのをやめて死んでしまおうかというわけでもないが・・・」などという意味の和歌があるのです。
 
 良寛さんでさえ、このようであったのだと思うと、人間ならば悩み苦しみもあってあたりまえで、愚かな自分も他人も愚かなまま、受け入れることができるような気持ちになります。
 
 お釈迦様も、晩年に弟子の阿難に「自分の身体は、今にも朽ち果てそうで、皮ヒモはちぎれ車輪はくだけそうに軋んでいる牛車のようだ。」とおっしゃいました。
 なぜかお釈迦様も最後は下痢でした。
 お釈迦様だから病気にならないとか死なないのではありません。
 当然お釈迦様は、自分の身体に対する執着もなく様々な煩悩を断ち切ったお方ですから、病気や老いの苦しみも、なんなく受け入れられたと思います。
 
 人は様々な災難や苦しみ悲しみを必ず経験することになります。
 そんなときにも心の支えになるものが、お釈迦様や仏教者の教えと生き様にはあります。
 
 私は、良寛さんのおっしゃる「災難にあうときには、災難にあうのがよろしい。それが災難を避ける方法だ」の言葉を転じて「死ぬときは死ぬのがよろしい」と覚悟するようにしています。
 このくらいの覚悟があれば、小さなことはへでもないですよね。
 しかし、実際の私は、めずらしく頭痛でもすれば、脳梗塞ではないかと不安がよぎり、痛みに耐えかねて右往左往して、夢中で般若心経など唱えています。
 人間なんて、そんなものだと思います。 
 理想と現実には、かなりの違いがあっても、自分というものに執着しない、欲に執着しない、人からよく思われたいなどとは思わない、愛する人にも執着しない、すべてを受け入れていくことは大切な生き方だと思っています。
 どこかで、腹をくくるというか、ふんぎりをつけるというか、思い切ることができないことも多かろうと思いますが、執着を断ち切りることも大切かと思います。
 (煩悩無尽誓願断)全宗派で称える四弘誓願の二番目は、煩悩無尽誓願断です。
 様々な煩悩があります。煩悩はあってあたりまえのようですし、それは断ち切っていかなければならないものだということも、ずいぶん昔から言われ続けてきたことなのですね。
 
 
今朝、ふと目にとまった記事がありましたので、紹介します。
 

老いも病も受け入れよう』(新潮社)が、5月31日に出版される。94歳を迎えた寂聴さんが若さと長寿について初めて綴ったその思いは、本のタイトルにもこめられており、

「人間は老いるし、病気にもなる。なりたくなかったら早く死ねばいいの。結局、反対したってなる。いかに私が病気の時に嫌な思いをしたか、苦しかったか、友達から優しくしてもらって嬉しかったか、その辺を全部書きました」

 すべてを受け入れたという寂聴さんは、闘病中も、“仕方ないから戦わなかった”という。法話では質疑応答の場が設けられ、参加者からの人生相談が寄せられたが、そんな人々に寂聴さんはこう説くのだ。

「お釈迦様は、この世は苦だとおっしゃってらっしゃいますからね。苦しみがないっていうのは、ちょっとおかしい(笑)。でも、それが人生ですからね。私一人がこんな目にと思わないで、これが人生だと思って生きてください」

(デイリー新潮編集部記事を参照)








「仏様のそばで、お昼寝はどうでしょうか。」  2016.8

夏になると、ふと思い出す話があります。

 浄土真宗の熱心な信者(妙好人)として有名な人がいたのですが、その妙好人が真夏のある日、仏壇の前で胸をはだけて気持ちよさそうに昼寝をしていたのです。たまたまこれを見た、やはり信心深い人が、「妙好人と言われる人間が、そんな恰好で阿弥陀如来様の前で昼寝をするなど、けしからん」と注意をしたら、妙好人は「おまえは、継子(ママコ)か」と言ったとのことです。
 妙好人は、阿弥陀如来のことを実母のように思い安心して甘えていたのでしょうね。
 注意した人も妙好人の言葉に、はっとするものがあったのではないでしょうか。
 それでなければ、この話しは伝わりません。
 とかく、私たちは、世間体というものを気にしすぎるようです。他人の目を気にしたり、形式にとらわれたりで、本来の大切な心を見失っているのではないでしょうか。

 仏は、衆生無辺誓願度、すべての人々を救いたいという誓いのもとに悟りを開かれたのですから、優しさにあふれています。

 良寛さんにも、母の故郷からわざわざ取り寄せたお地蔵さまを、いつのまにやら枕変わりに使用していたというお話しがあります。
 一休さんも、蓮如上人が留守の間に訪問してきて、阿弥陀如来か親鸞聖人の坐像であったと思いますが、それを枕にして昼寝していたという話しがあります。(決して、阿弥陀如来や親鸞聖人をあなどったのではありません。一休さんは、蓮如上人と仲がよく臨済宗から浄土真宗に改宗しようとしたほどです)

 私たちは、世間体とか、社会的評価とか、常識とかを気にしすぎているのではないでしょうか。
 競争社会に染まって、他人との比較の中で、一喜一憂していると、なかなか安定した安心というものはありません。

 仏教は、優しさにあふれ、たとえ厳しさがあったとしても本来はおおらかなものであると思います。
 信心はあるようでない人もあるでしょうし、ないようである人もあるでしょう。 本当の信心の見極めは難しいとは思いますが、妙好人や良寛さんや一休さんのような、本当の信心ある人にめぐり会えた人は幸せです。

 仏は、すべての人を救いたいという誓願の上に悟りを開かれたのですから、私たちは、すでに救われているはずなのです。 私は、このことが20代の後半から、漠然と気になっています。しかし60歳になっても、このことは、はっきりとはしません。

 白隠禅師の坐禅和讃の冒頭は、「衆生本来、仏なり」です。
 般若心経の後半は、過去現在未来の諸仏が、この上ない悟りを開かれた。安心しなさい。この悟りは、一切の苦しみを取り除いてくれるです。
 仏教各宗派で称える四弘誓願の第一番目は「衆生無辺誓願度」です。
 
 どうやら、私たちは救われているようだし、救われる方法もあるようなのですが、そう簡単にはわからない。
 わからないなりに、苦しいときや、悲しいときには、仏様の優しさや教えを思うと、心は少し軽くなりますよ。

 何はさておき、仏様は、限りなく優しい存在であるのだから、仏様に、少し甘えてもいいのではないかと思います。






「肯定、肯定、(絶対肯定)の世界」 2016.7

雨が降れば、外廻りの仕事をする人は、うんざりします。
私も、昔10年以上も営業マンとして個別訪問していたので、雨の日はやはりうんざりしたものです。
うんざりした気持ちで営業しても、成果は望めません。
自分で自分にやる気を起こさなくてはなりません。
運が良ければ、上司や周囲の人がやる気を起こさせてくれるかもしれませんが・・・。
自分なりに、毎日のやる気を引き出すことができるかどうかが、営業マンにとっては大切です。
 
かなり昔の話しですが警察官向けの雑誌で、聞き込み捜査の超ベテラン刑事の話しが載っていました。
そのベテラン刑事は聞き込み捜査は雨の日がチャンスだというのです。
雨の日は在宅率が高いし、隣近所の人目が少なくなるので、人目があると話せないことも話してくれます。
それだけではなく、そのベテラン刑事は、あえて雨にずぶ濡れの姿で聞き込みをするのだそうです。
そうすると、普段の日なら相手もしてくれないような人が「ごくろう様です。実は・・・・」と、有力な情報を提供してくれることが多いのだそうです。
考えてみれば、誰でも警察にはかかわりたくないし、人の悪口や、よくはっきりしないことを警察にあえて話したくはないでしょう。
ところが、一生懸命にずぶ濡れになりながらも聞き込みをしている刑事さんの姿を見れば、ごくろう様と思うし、少しでも協力してあげようと思うのが人の人情だと思います。
 
大手靴会社のセールスマンが、アフリカの各国に行き本社に第一報を入れたそうです。
一人のセールスマンは「ほとんどの人が靴を履いていない、売れる見込みはほとんどない最悪の国だ」
一人のセールスマンは「ほとんどの人が靴を履いていない、これからいくらでも売れる最高の国だ」
 
コップ半分の水も「半分しかない」「半分もある」と真逆の見方ができます。
 
ピンチはチャンス。
 
禍福はあざなえる縄のごとし。
 
私の親戚の女性が、農作業で指一本を切断して失くしたので、私の友人が慰めたら、彼女は「指1本の切断だけですんで良かった。」と本当に喜んでいたそうです。
彼女は、一言二言言葉を交わした程度のお付き合いしかない親戚の女性なのですが、この話しを、私は誇らしく記憶に留めています。
 
お釈迦様の弟子に、元王様がいました。その元王様が、いつも幸せだと言っているので、他の弟子の一人が「王様が出家して、乞食の生活をして本当に幸せだと思っているのだろうか。嘘をついているのではないか」とお釈迦様に聞きました。お釈迦様は、元王様の本人に聞いてみなさいといわれました。元王様は「王であったころは、いつ他国から攻め込まれるか、いつ殺されるかと毎日が心配だった。今は、出家してその心配が一切なくなったので、幸せでいっぱいなのだ」と答えました。
 
当店のお客様で妙齢で美しく賢い方がいらっしゃいます。若い頃は、さぞかし美人で男どもからもちやほやされた経験もおありになったであろうと思います。
そのお客様が「姉がすごく美しい人だったの。〇〇の僧正様も若い頃、姉に手紙を書いてよこしたのよ・・・」お話しをうかがっているうちに、お客様は姉妹の中では、お姉さまがはるかに美しい存在で、ご本人はコンプレックスを感じていらしたのだと思いました。でもそのコンプレックスが、美人を鼻にかけないさばけた性格につながったのではないかと思います。
 
否定もよし、肯定もよし。それぞれによさはあるものです。
人が変わるとしたら、そうだな、と思ったときです。
そうだなと、思った人が一人でもいらっしゃれば、それはよかったと思います。







「常懐悲感心遂醒悟(じょうえひかんしんすいしょうご)」 2016.6



常懐悲感心遂醒悟(じょうえひかんしんすいしょうご)という言葉があります。
一般的には、常に心に悲しみを抱いていれば、心は醒めて遂には悟りに至るという意味だと思います。
法華経如来寿量品に書かれている言葉です。)
毒を飲んだ子供が、父である医者が作った解毒剤を毒の作用で薬として信じることができずに飲んでくれない。
そのままでは、毒に侵され、子供は苦しみながら死んでしまう。
そこで医者である父は、子供の心を覚ますために、子供から離れ旅に出て、父が死んだという嘘の知らせを子供に伝える。
子供は、父が死んだという悲しみになげき、やがて心が覚めていき、解毒剤を薬として信じることができるようになり、ようやく解毒剤を飲み、子供は毒の苦しみから救われ、命も助かったという話です。(法華経には、このような童話のようなたとえ話がたくさんあります)
 
ちょうど10年前、私が25年間務めたグループ会社が倒産しました。
その数か月後には、そこはかとなく優しく男らしかった上司が膵臓癌で亡くなりました。
そして、それから1月もしないうちに私は妻の浮気に気づくことになりました。
浮気の一つや二つは許す気持ちはあったのですが、どうも様子がおかしい。
妻に男と別れろと言ったら、「あなたと別れます」と言われてしまいました。
結婚して13年間、子供の教育を中心に意見の食い違いはありましたが、愛し合っている夫婦だと思っていました。
一番妻に支えてほしいときに、妻は私を裏切ったのです。
さすがに、私の心も悲鳴を上げたいほど、心ここにあらずの状態で、どうしようもない不安と悲しみでいっぱいでした。
駅のホームを歩いていると、身体が線路にすいこまれそうで、命の危険も感じました。
思い余って、わが師に相談したら「わかれなさい」とのことでした。
この「わかれなさい」で、妻とは別れる決心をしました。
もっとも、未練たらたらで、恥ずかしながら土下座して妻に、もう一度やりなおしたいとお願いもしたのですが・・・。
妻は、私との別れを選んでいるようでしたので、きっぱりと別れました。
私はよく言えば熱血漢で激情型ですから、一歩間違うと、憎しみと怒りと絶望から、どんな事件が起きても不思議ではなかったはずです。
わが師の「わかれなさい」の言葉がなかったら、私は、どうなっていたのでしょうか。
今でも、私の周囲の人たちは、別れた妻がどうしているのだろうかと、私に聞きます。
私にすれば、忘れかけた古傷にさわられて、少し痛いのですが、笑って聞き流すこともできるようになりました。
一つの悲しみも10年もたてば、遠い過去の思い出です。
 
ところで、私なりの解釈では、常懐悲感心遂醒悟(じょうえひかんしんすいしょうご)は、悲しみは人にしゃべったりせずに、静かに心に常に抱いていなければならない。
そうすることによって、心は醒めて遂には悟りに至る、ということなのです。
私は、自分の悲しみの一つを、多くの人にしゃべってしまいました。
でも、まだ、人にはいえない悲しみが、私には一つ二つあるのです。
この悲しみを、今、しばらく胸にしまって、生きていこうと思います。








「真実を求めてひとすじに生きん」 2016.5

私は、社会や人から束縛されたりするのは嫌いだし、信心は大切だと思っていますが、盲信では困ると思っています。
真実なものは、慈悲や愛に満ちて大らかで、ユーモアにもあふれるものだと思います。
仏法は、人々を苦しみから救い、人間の幸せな生き方を教えてくれます。
師のない、仏法というものはないと聞いています。
仏法を学ぶためには、師が必要です。
私の師である良寛と紀野一義先生も、最近の坊主は私利私欲にはしって、仏の道を学ぶことを忘れている者が多いと痛烈な批判をしています。
まあ、いつの時代もそうです。
師とあおげる師をもつことの難しさもあります。
浄土真宗では、同行という言葉を聞きます。
師弟関係ではなく、ともに仏法に学ぶ道を行く者ということでしょうか。
日本には、仏教というすばらしい教えがあるのに、この教えを知らず、教えを求めてさまよう人も多いように思います。
私たちは、遠くにあるものばかりを求めて、身の回りにある、すばらしいものを見落としていることが多いようです。
この大都会東京にも、タンポポや雑草がたくましく咲き、家々の軒下や庭には、季節折々の美しい花が咲いています。
私たちは、見ているようで見ていないことも多く。
気づけば、意外と美しい世界が、身近に開けるように思います。






「心ひろびろとさわやかに生きん」 2016.4

人間どのように生きるのがよいのかわからなくなることがあります。
鬱状態というか、朝からやる気が湧いてこないとき、いくら考えても、どのように生きるのが良いのかわからないときに、このごろは理想として「心ひろびろとさわやかに生きん」と、自分に言い聞かせます。
プライドなんか捨てて、バカと思われようが、損をしようが、小さなことにくよくよせず、さわやかに生きる。
なかなかそうはいかなくても毎日自分に言い聞かせていれば、また、あの頃のように、さわやかに生きれるのではないかと思っています。

小学校5年生の時に、幼稚園から一緒だった里見ちゃんという女の子が脳腫瘍の手術後に亡くなりました。
足の早い子で、生きていれば、おそらく陸上選手として、またスポーツ選手として大活躍したのではないかと思っています。
幼い時から、悩みを抱えた僕でしたが、彼女とたまにかわす会話で、妙になぐさめられていたのです。
彼女が生きていれば、ひょとして、彼女は僕の世話女房になっていたかもしれないと思うことがあります。
しかし、ずいぶん、彼女を泣かすような生活をして、僕自身はやりたい放題、彼女は、それでも笑って見守ってくれたかもしれません。
僕は、彼女の死がやはりショックだったのでしょう。彼女が亡くなった夜から高熱が出て、翌日の葬儀には、クラスで僕一人が欠席してしまいました。
それからは、毎月12日の月命日には、中学を卒業して地元を離れるまで欠かさず、彼女の墓参りをしました。

中学時代も嫌なことが山ほどあったのですが、彼女(里見ちゃん)の墓参りをして、そこで何もかも忘れて、一度死んだつもりで、日々をやりなおそうと思いました。
里見ちゃんが、死んだということで死というものが怖いものではなくなりましたし、逆に早く死にたいと思うようになっていましたから、怖いものが無くなったように思います。
何もかも捨ててしまったようなものだから、執着心がなくなり、すっきりしたのかもしれません。
悩んだら、里見ちゃんの墓の前で手を合わせていれば、すっきりした気持ちになる。
人から、馬鹿だといわれようが、生意気だといわれようが、キザな奴と言われようが、あの頃は、ほとんど気にしなかったですね。
しかし、思い切りよく生きていましたから、勉強もスポーツもよくできるようになり、知らない間に、プライドができ、偉くなりたい、もっと人から認められたいなどと欲が出てきました。
このあたりから、生き方を間違ったのかもしれません。

また人一倍不幸な出来事も経験したせいもあるのか、僕の60年の人生は、幸せ感の少ない人生だったと思います。
はためには平凡な生活を送っているものの、安心感というものがない。
何か不安な思いがします。
自分に執着しているのではなく、家族をはじめ愛する人々に執着するというか、世界中の様々な不幸に目をむけると暗い気持ちになります。
自分一人の幸せでは、幸せにはなれません。
できる限り、大勢の人々に幸せになってほしいと思います。
これは、執着です。苦しいのは、何かに執着しているのですね。その執着を捨てるとか、心の持ち方一つで、どんな状態でも、心の平穏は感じることはできるのではないかと思います。
一見、世界中には不幸な人であふれているようですが、本来、人間は、どんな生き方をしようが、救われているのではないかと思うようになりました。
この思いを持つようになって、少し僕にも安心感のようなものが、芽生えはじめました。

白隠禅師の坐禅和讃の冒頭は「衆生本来仏なり」です。これは、本来はすべての人間が仏様ということです。
阿弥陀如来も釈迦如来もすべての衆生を救う(救えないのなら悟らない)という誓願のもとに悟りを開かれたのですから、本来、すべての人々はすでに救われているはずです。
それが実感できなくて、悩み苦しむ愚かさです。
これが、一般的な人間の姿なのかもしれませんが・・・。

人間は悩むもの。悩みながらも生きていくもの。
迷いもない悩みもない極楽浄土は、さぞかし退屈でしょう。
迷いがあるから、悟りがあるので、悟れば迷いも悟りもなくなります。
迷っても悟っても、「衆生は本来仏」というひとことを信じたいものです。

さて、どろどろした、この世の中、いかに生きていくのか。
やはり「心ひろびろとさわやかに生きたい」ものです。
                         (野田)