「仏壇あるところ道場となる」

仏壇とはなんなのだろうと考えたとき、明確な答えはないようである。
仏壇の起源も、仏壇の必要性も明確に説明したものはない。
 
私の田舎では、どこの家にも仏壇があった。
今でもそうだと思うが、都会では、仏壇のない家も多くなった。
だんだんと、日本は昔の日本ではなくなってきている。
それが良いことなのか、悪いことなのかはわからない。
しかし、文明が進み、便利になり裕福な時代となったが、日本人の幸福感は向上したのであろうか。
 
明治に日本にやってきた小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、日本人の庶民があまりにも善良で無欲で純真であることに感動した経験を作品として残している。
陶芸家のバーナード・リーチは小泉八雲の作品を読んで、日本に強い憧れを持ち、留学先で友人となった彫刻家で詩人の高村光太郎に日本行きを相談している。
高村光太郎は、小泉八雲が見た日本はすでにないから、日本行きはよした方がよいと言っている。
明治の30年、40年の間にも急激に日本は日本らしさを失ったということのようである。
 
仏教は、人としての生き方に大きな影響を与えてきた。
人生のどうしようもない悩み苦しみにも、生きる望みや安心を与えてきた。
仏教は物質面の幸せではなく、精神面の幸せに大きく役立ってきた。
それがいつの間にか、庶民には葬式のときなだけ必要なものか、観光地としての見学先になってしまった。
当然例外はあるだろう。
これは、仏教関係者だけの問題ではない、日本人の、いや人間(人類)の問題である。
 
ところで、仏壇とはなんなのだろう。
道元禅師は、京都の在家信者の家でお亡くなりになった。その数週間前に、信者の家のお堂の廻りを法華経の神力品を読誦しながら歩かれたそうである。
この神力品には、諸仏はあらゆる場所にいらっしゃる。野でも山でも、家でも庭でも、どこにでもいらっしゃる。そこに塔を建てよ。そして供養しなさい。
その場所は仏教の道場となる。というような意味が書かれているらしい。
なるほど、仏壇を置き、線香を焚き、水をささげ、ご飯やお菓子をささげて両手をあわせて拝む場所は、神妙な道場である。
目に見えない仏や父や母や息子や娘を思うとき、いつもの日常と違ったものがある。
仏壇のある部屋は、仏教の道場である、心の道場である、人間いかに生きるかを問う道場である。
 
仏様は、あらゆる場所にいらっしゃる。
仏壇があれば、そこはたちまち仏教修行の道場となる。
なかなかいいではないかと思う。



私の愛する仏たち(水書房)
法界寺阿弥陀如来




 今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
 いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。

   自誓
    一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
    一、真理をもとめてひとすじに生きん。
    一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。