2025.2 執着(苦しみの原因の一つ)しない生き方
お釈迦様の言葉を集めた、仏教の経典としてはもっとも古い時代に成立したスッタニ・パータ(仏陀の言葉)という経典を読むと、悟りに至る方法がいくつも紹介されている。その中でも悟るためには、いくつもの手段というか、ものの考え方があるのだが、特に執着しない生き方というのは大切なのではないかと思う。
執着は苦しみの大きな原因であり、執着しない生き方は、苦しみをなくし悟りも得ることができる大切な方法なのである。
私が、このブログでも何度かとりあげた、無難禅師の「生きながら 死人となりて なりはてて 思うがままに なすわざぞよき」は正しくは「するわざぞよき」のようですが、この教えも執着しないということを強調しています。金銭欲や名誉欲や食欲などの様々な欲望に執着しないどころか、自分というものにも一切執着しないということです。
禅宗六祖の慧能は五祖弘忍に金剛般若経を教えてもらう中で「応無所住 而生其心(オウムショジュウ ニショウゴシン」」の言葉を聞いた瞬間に大悟したようです。
住することなくして、それでもってその心をおこせ。要は、一切執着することなくして、そして、何にもとらわれていない心で感じて思え。ということであろうかと思います。
五祖弘忍が六祖として認めたのは、誰もが認める五祖の弟子の中の秀才が「今の私の心はチリ一つもない鏡のような心境だ」とう詩を作ったときに、米つきの立場の慧能が「もともと何もない心に、チリはつかない」といった詩を作った。もともと何もないのである、チリがつくとかつかないというのは、ただ人間が考えるだけで、本来何もないのだよ、とう慧能の境地が、やはりより深いもののように思う。
本来、何もないのに、いいだ悪いだというのは、人間が考えることであって、本当は、どうなのだろう。
ややこしい話しはよして、死人は、いいだ悪いだ、嬉しいだ、恥ずかしいだの言わない、この大宇宙の中で、私一人の人生なんて、チリのようなものだ。
誰の人生もたかだかしれている、あまり小さなことにこだわらないことだ。今までの人生をひきづり、昨日をひきづり、つい先ほどをひきづり、窮屈なつまらない人生を送ってはいないか。
私自身は、こつこつと紀野先生の教えを思い出しながら、良き人々の出会いに感謝して、執着のない生き方を目指しています。
死ぬときは、死ぬのが良い。生きるときは、生きるのが良いと自分に言い聞かせています。執着せず、やりたいことは、駄目もとで、結果などきにせずやる。
心優しく美しい人がいれば、自分の年なんか気にせず、愛することができるなんて、幸せだろう。
いずれ別れはくる、早いか遅いか、そんなことを気にしていたら駄目だ。それより、本当の自分の心をじっと見つめることの方が大切だ。
死人は、自分はもう年老いたから駄目だとか。馬鹿だとか、恥ずかしいとかは言わない。
日々是新たなり。日々どころか、刻々と新たなりだ。
いろんなものを、ひきづっていることが多いと思うが、お釈迦様も祖師方も執着することがよくないとおっしゃっている。
心を素直にして、執着はせず、やりたいことはダメ元で、さわやかに生きたいものだ。
今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。
自誓
一、 心ひろびろと、さわやかに生きん。
一、真実をもとめてひとすじに生きん。
一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。