2025.05 龐(ほう)居士と霊照(りんしょう・れいしょう)の死に様
私は、このブログでも龐居士と霊照の死についてとりあげたことがある。
龐居士は月蝕の日に死ぬことを決めていたと思っていたのだが、正しくは日食の日であったようである。
もっとも龐居士については、創作された伝説的な話しが多いようであるから、何が正しいかは定かではない。
日蝕より月蝕の方が趣きがあってふさわしいように思うが念のため、書き記しておく。
龐居士は日蝕の日に死ぬことを決めていて、娘の霊照が、太陽が昇り日蝕が始まったことを龐居士に知らせた。
龐居士が日蝕を眺めている隙に、霊照は奥の部屋に入って、結跏趺坐(けっかふざ)のまま死んでしまった。
(用意されていた縄で首を吊って死んだということでもいいと思うのだが・・・)
そして、龐居士は、死ぬのを7日間延ばして、霊照の弔いをして、死んだという。
その死を看取った于頔(うてき)という長官に「一切の存在するものを空とし、一切の存在せぬものを有としてはならん。ま、ひたすら機嫌よく暮らしなされ。あらゆるものは影や響きのようなもんじゃ」というと長官の膝を枕にして示寂した、ということになっている。
(「」の部分の訳は、「龐居士の語録」山田史生著から引用しました)
空の思想は、般若心経を通じて、何となく大勢の人が聞いていると思いますが、あらためて、本来は全て空であり、実在していると思いこんでいる全ては、影や響きのようなものだ。だから明るく元気よくのんびりと楽しく生きていきなさい、と伝えているのです。
最近ノーベル受賞学者達の量子理論の世界では、実際にこの世に存在している全てのものは、実態がないということが立証されつつあるのですから、今、一度、龐居士のような禅者の言葉に、しっかりと耳も傾けたいと思います。
龐居士と霊照の語録で印象深い話しをもう一つ。
「龐居士が転んだ 霊照もそばに転んで にっこり笑った」(これは朝比奈宗源老師の臨済録訳の中で、私の意訳です)
老いた龐居士が転び、それを見た霊照は、転んだお父さんがかわいくていとおしくて仕方ない、ぱっとそばに転んで、お父さん今転んだね、かわいらしくておかしかったよ。お父さん大好き!!
お父さんが死んだら私も死にます。あの世でも、仲良く暮らしましょうね。お父さんは、私の全て。
これでは、実の娘の愛というよりも、男と女の深い愛のようだ。
だから、霊照は、実の娘というより、養女ではないかという伝説が多い。
それも愛の結晶を見ているような、霊照の愛一筋を感じる。
やはり、このような愛は、人間として、いつ死んでもいいくらい素敵なものでは、ないだろうか。
そして龐居士は、「ま、ひたすら機嫌よく暮らしなされ」、と遺言してくれたのだった。
今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。
自誓
一、 心ひろびろと、さわやかに生きん。
一、真実をもとめてひとすじに生きん。
一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。