2025.6 人間いかに生きるか(悟りは、遠く・・・・・)
紀野一義先生が八十八才のとき、米寿のお祝いに合わせて、真如会の修養聖典を新しくCD版で復刻することになった。
その中に、八十八才のお声も録音したくて、日経ラジオ短波に勤めていた和田耕平君に頼んで、ちゃんとした録音機材を使って収録し、編集も和田君にお願いしたことがある。
私は、その頃5年以上も足が不自由になられた先生のお供で、毎月10回前後はお会いし、色々とお話しをお聞きしてきたのだが、あまり自分から先生に質問した記憶がない。
やはりここは真剣に、一度「人間いかに生きるのがよいのか」と、聞いておきたいと思って、先生に質問した。
「人間いかに生きるか。これはなかなか結論が出ない。だからみんな考えることをやめてしまう。そんなことでは、哲学の勉強はできないよね・・・人から良く思われようなんて思ったら駄目だよ。自分がいいと思えば、それでいいじゃないか・・・」
このあと、書きにくいこともお話しになったのだけれど、それは会員向けのCDの中には、しっかりと録音されている。
まあ私の質問は哲学的な質問であったわけで、仏教的ではなかったわけだが、先生は人々の幸せを願って生き、語られたので、それが仏教の大切なところであろうと思う。
衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)、全ての人々を幸せにしてあげたい、この一念が大切なのであって、この一念があれば、悟ったも同じだということを、道元禅師もおっしゃっている。
この気持ちなくして、悟っただの見性しただのといっても、本当の悟りとは言えない。
自分と他人の区別がなくなり、すべての人々の幸せを願う心は、親鸞聖人がいうように「人が悲しむときに、一人悲しむのではない。もう一人悲しむ者がいる。人が喜ぶ時、一人が喜ぶのではない。もう一人喜ぶ者がいる。そのもう一人とは親鸞、私のことだ」という、自他の区別がなく、全ての人と一体になった思い。これは深い悟りであろう。
お釈迦様は、人々があまりにも苦しむので、その人々に、その苦しみから救われる方法も説きあかされた。
だから仏教の教えの中には、苦しみから抜け出す方法がしっかりと説かれている。
簡単にいえば、物事に執着するな、欲望をコントールしなさい、自分の心をコントーロールできるようになりなさいなど、いたるところに教えが説かれている。
最終的な、お釈迦様の願いは、衆生無辺誓願度を成就することであり、何度も何度も生まれ変わらねばならない世界から解脱しなさいということであろうか。
口先では、いくらでも言えるが、そういう気持ちに心底なれない。
お釈迦様も紀野先生も、そのあたりは見通して、あれやこれやとお話ししてくださり、生きざまも見せてくださったのであるが、69才の私は、生きているうちに悟りはきそうにないと思うと、時々、恐怖にかられたり、うんざりしたり、憂鬱な気持ちになるのである。
それでも私は、から元気でも人々の幸せを願い、真実をたえずもとめ、さわやかに生きようと、自分をしった激励して生きていくしかないのである。
今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。
自誓
一、
心ひろびろと、さわやかに生きん。
一、真実をもとめてひとすじに生きん。
一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。