202507 自分が嫌いなることもある
時々、自分が自分自身のことが嫌になることがある。
誰でも、そんなことがあるのではないかと思う。
本当に、自分がやりたいことは何だったのか。
本当にやりたい、本当になりたい自分と違った道を歩み始めると、気分が悪いし、うんざりもするし、恐怖さえ感じるものである。
私自身は、全ての人が幸せになるにはどしたらいいのか、ということが大きな課題なのである。
そんなことができるわけがない、思いつつ、それでも、それでないと何かが間違っているような。
青春時代から、そんな思いで生きながら、いつの間にか、自分自身が生きることで精一杯であったり、何もできないまま月日は流れていくのである。
お釈迦様も、様々な如来も菩薩は、この問題に対して、解決方法は見出されているのであると思う。
なぜかと言うと、仏教では各宗派とも四弘誓願(しくせいがん)の第一番目は衆生無辺誓願度であるからである。
仏教の基本は生きとし生けるもの、全ての存在の幸せを願ってやまぬことにあると思うのである。
キリスト教には、あきらかに善悪があり、悪は裁かれるものであると思う。
イスラム教のことは、ほとんど知らないが、剣かコーランかと例えられるように、敵味方の世界である。
それに反して、仏教は親鸞聖人のいうように「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」というように、どうしようもない悪人ほど救ってやりたいとさえいうのである。
道元禅師などは、すでにある大地の上に、「人が生まれた時に、大地自然もまた生まれる」ということを言っている。
私が、仏教の好きなところは、このように全ての存在が一体であり、全ての存在の幸せを願っているところである。
私には、まだまだ理解できないが、全ての存在の幸せを願い、どうすればいいのかと説明しているのが仏教であると思う。
また悟りとか、幸せの境地にいたるには、一つの方法ではなく様々な方法があることをお釈迦様も、スッタ・ニパータ(仏陀のことば)の中で、はっきりと説明なさっている。
やはり人は様々で、悟りや幸せの境地に至るのも、それなりに良き師に巡りあうことが大切だと思う。
私は、紀野一義という偉大なる師に巡りあうことができ、道筋はつけていただいた。
あとは、この道を成就するだけだ。
今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。
自誓
一、心ひろびろと、さわやかに生きん。
一、真実をもとめてひとすじに生きん。
一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。