2026.3 生きることの目的
人間いかに生きるべきなのかということについて、よく考えることがあります。
神や仏、この世界を創造したもの(弁栄聖者のいう一大心霊)、万能の力を持つ存在であれば、世界中を戦争のない平和な世界にすることは十分可能であると思います。
それが、この地球上においては、今もまさに戦争で人と人が殺しあう。
善と悪が存在し、楽しみと苦しみがあり、そのような世界が人間という世界だということなのでしょう。
人間がどれだけ頑張っても、人間である限りは、戦争も苦しみも悲しみもなくならないと思います。
戦争に関しては、現代の戦争というものが核兵器によって、人類滅亡の危機も含むので、何とか対策は考えないといけないと思います。
はたして、そのような危機のときに、神や仏や一大心霊はどのように動くのでしょうか。
仏教的にいえば、実態がないのだから滅することも生ずることも、善も悪もないのだから、人類が滅亡しようが、本来の魂のようなものは存在し続けるのでしょうか。
私は、何度か、このブログでも書きましたが、天国とか極楽浄土は、あまりにも退屈でしようがないなと思うのです。
それが際限のない楽しみをきわめている世界だと言われても、何かものたりないものを感じてしまいます。
「まあ、あんたは極楽にはいけないから、大丈夫だよ」と、先輩にからかわれましたが、浄土三部経には、私のように、何度でもこの世に生まれ変わって、人々を救いたいと思うような人間は、阿弥陀如来のおっしゃる極楽浄土には生まれ変わらないと書いてありました。できれば、極楽浄土で会いたい人もいるのですが、それはそれで、いたしかたないことかもしれないと思ったりします。
衆生は本来、みんな仏のようです。または、仏になる存在なのです。法華経の中に常不軽菩薩のお話しが出てきます。この菩薩様は、会う人々皆に「あなたは仏になる人です。決して軽んじたりしません」といって、人々を礼拝したといいます。
衆生、全ての人々は仏の大本である仏から人間として生まれ、人間という醜くも美しくもある不完全な存在が、やがては、また、完全な仏のもとに帰っていく。
じゃあなぜ、人間に生まれたのかということも少しは、考えた方がよいかもしれない。
せっかく不完全な存在として、仏であったことも忘れて、人間に生まれてきたのだから、人間として生きる、喜びも悲しみも苦しみもしっかり味わい、一つの人間ドラマを生きたいものだ。
そして、人間に生まれた目的は「魂の成長」ではないかと思うのだ。
天国や極楽浄土では「魂の成長」は、非常に難しい世界だ。
人間世界だからこそ、この魂が磨かれる。
、
魂を磨くには、うわべの行いでは、何の役にもたたない。それこそ、時には、死んでしまいたいほど、のたうちまわり苦しみ悲しむことも必要だろう。
もしそれで死んでしまったら、おそらくまた生まれ変わり、同じ問題にたちむかうことになる。
ひょとすれば、何百回も何千回も生まれ変わっているのかもしれない。
どこかで、この輪廻転生は断ち切らなければならない。
少し気になるのは、数年前ブログにも書いたけれど、私が、寝起きで立ち上がろうとした瞬間、どこからともなく、はっきりと「おまえは、もう生まれ変わらなくなる」という声が聞こえたことがある。
私は、極楽浄土など退屈でしかたないと思うような人間である。できれば、何度でも生まれ変わって、人間というものを見ていきたいし、その人間の中に、びっくりするような美しさを見てみたいと思っているのである。
なかなかそんな美しさには出会えない。
それは、私自身の内面のいたらなさが大きな原因なのだとも思う。
そろそろ私も、本当に、人間世界ともおさらばしなければならないのかと思うと、残り少ないかもしれない人間世界を少しは真剣に生きたいと思う。
そして、できることなら、この魂も鍛えなければならない。
そんな難しいことでもない、先生の下記の教え「自省」を時々は思い出し、こつこつと忍耐と勇気を持ち、執着をはなれて生きていけばいいのだと思っている。
今は亡き、わが師(紀野一義先生)の教えです。
いかに生きていけばよいのか、わからなくなったときのよりどころとしています。
自誓
一、
心ひろびろと、さわやかに生きん。
一、真実をもとめてひとすじに生きん。
一、おおぜいの人々の幸せのために生きん。